自由意志はどこに消えた?
1980年代にアメリカの生理学者がある実験を行いました。実験は被験者を椅子に座らせ、テーブルの上に手を置いてもらい、好きなときに手を動かしてください、とお願いし、被験者の脳の活動を測定しました。すると、「手を動かそう」という意識の上での決定よりも、「手を動かそう」という準備の方が0.5秒から1秒ほども早く始まっていました。最近の研究では、7秒も前に準備が始まっている場合もありました。つまり、「自由意志」が「手を動かそう」と命じるよりも前に「手を動かす」準備はすでに始まっていたことになります。
この結果をどう捉えるか。脳科学者の間では論争が続いています。
私は、そもそも「自由意志」を想定することがおかしいと考えています。
それはなぜか。「手が動く」という現象は、脳のどこかの神経細胞と神経線維から発せられた電気信号が化学信号と電気信号に変換されながら、神経細胞と神経線維を伝わり、手の筋肉が刺激されて、手が動くことで起こります。この過程は物理学と化学ですべて説明できます。そして、その過程の発端はといえば、神経細胞と神経線維の表面のタンパク質上にある、ふだんは閉まっているバルブが開き、そこにナトリウムイオンが入ることです。つまり、すべての神経活動はタンパク質のバルブの開閉から始まるのです。
だとすると、「自由意志」は、このバルブを開閉する物理的な力を持っていなければなりません。でも、私たちがイメージしている「自由意志」とは、意識に浮かぶ理念のようなもののはずで、それが物理的な力を持っているとすれば、「念力」になってしまいます。
(投稿者注:池谷裕二氏のモデル化した表現と、実際の生理的現象の混同?
・ふだんは閉まっているバルブが開き、そこにナトリウムイオンが入る
・「自由意志」は、このバルブを開閉する物理的な力を持っていなければなりません
という解説は少し論理の飛躍を感じます。
「バルブを開閉」というのは独特のモデル化した表現であり、実際のナトリウムイオンの入る現象は生理的現象のはずです。投稿者は素人ですが、例えば脳内血管から脳に吸収する栄養成分を、脳を守るため成分を限定する仕組みがあります。供給可否を神経細胞などの監視の下で血管壁をすり抜ける成分を選択するモデルで、そこにはバブルを物理的な力で開くなどというモデルは見た経験がありません。池谷裕二氏は「念力」という刺激的表現を導き出すために解説に少々無理をしている気がします。当然ですが、素人に向けた専門家の解説のひとつとして考えてください)
つまり、「思った」だけで、脳の中で「物質」が動くといっているに等しい。「自由意志」には目の前のコップを触らずに動かす力があるといっていることになります。ですから、私は脳科学を探求していくなら、「自由意志」という概念は使わない方がいいと思っています。
――続く 次回、脳は何のためにあるのか
参考:文藝春秋SPECIAL