9.小野小町の現実と伝説への発展
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版
小町の放浪伝説が全国的に広がった要因には海辺の語彙が想像させる零落のイメージがあったかもしれない。だが、もちろん、小町が恋の歌に援用した事物は海辺と関係ないものの方がはるかに多いのだ。
あやしきこといひける人につかはしける
結びきといひけるものを結び松いかでか君にとけて見ゆべき
ここには貞節の人としての小町がいる。「玉葉集」の「恋一」の歌。「結びき」は結婚したことだから、その後なお、けしからぬ逢いを求めてきた男があって、小町はもう「結婚したからにはあなたに気をゆるしてお逢いすることはできない」と断っている。小町伝説にはない小町像である。
実もなき苗の穂に文をさして人のもとへやるに
秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身空しくなりぬと思へば
(秋の野分に会う田の実は稔りきれずに悲しいことだ。飽き風にあえば私の頼みとする恋も実らず空っぽの穂のようになってしまうのだから)
小町の時代はこんなに稲作の現場とちかいものがあったのだ。台風にやられて実らない稲の空しい中身を、実感として悲しめる恋人どうしの間で、稲の空穂に結んで心を問い合うという場面が、まだ田園の風景とともに残っていたのである。
小町の絵像はあの佐竹本「三十六歌仙」で知られる後ろ姿の華麗によって、なんとなく十二単を着ていたように錯覚されているが、まだあの豪華な晴れ装束は完成していない時代である。
稲穂に歌を付ける小町はどんな衣装を身にまとっていたのだろう。小町の時代の服装はまだ解明されていないだけに想像力が刺激される。
ついでながら、「卒都婆小町」の能は、老後零落し乞丐(こつがい)人(物乞いする人)となった小町が、仏体を表す卒都婆に腰かけているのを発見した僧が、教化しようと問答をしかけるが、かえって人生の深奥をくぐりぬけてきた小町の解釈に脱帽する。
小町の答えは、「仏の国の極楽ではともかく、ここは俗世、極楽の「そとは(卒都婆・外は)」なら腰をかけようととがめられるはずはない」というものだ。すっかり中世的な仏教論理に挑む理論派の小町が誕生している。
今日能の分野で最も尊重される老女物五曲のうち、三曲までが小町を主人公とするものであることを、どう考えたらいいであろう。小町は文芸の世界では日本第一の美女であり、歌の才媛であった若き日よりも、老後の無残な姿、存在そのものの方に魅力を求められていったのである。これは日本の芸能の歴史とともに考えるべきテーマではあるが、小町がもつ多くの恋の名歌と、多様な空想をもよおさせる歌の数々があってこそのものでもある。
おわり