山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
初音:はつね・・鶯(うぐいす)の新春の鳴き声
光源氏三十六歳の正月、六条院は初めての春を迎えた。紫の上が住む春の町は「生ける仏の国」さながらの素晴らしさで、女房ともども「歯固め(元日に歯の根を固めて一年中健康であることを祈念して固い食物を食べる行事)」の祝いに興じた。
その夕べ、光源氏は女たちのもとを回る。まずは紫の上と、夫婦仲を寿ぐ歌を交わした。
次いで八歳となった明石の姫君の部屋へ。庭前で女童(めのわらわ)たちが小松を引くなか、実母・明石の君からの贈り物と文を目にする。不憫に思った光源氏は自ら硯を用意させ、姫に返事を書かせた。
夏の町の花散里は、彼女らしい上品な暮らしぶりである。もう男女の仲ではないが、不器量な彼女と縁が続いていることを、光源氏は自分の変わらぬ愛情と彼女の思慮深さの証拠と思う。
その西の対には玉鬘が住み、光源氏の贈った山吹の装束も華やかで、光源氏の心をときめかせた。
暮れ方、冬の町の明石の君を訪ねると、思いつくままに書き付けた歌が置かれていた。その中に娘から文の返事をもらった喜びを詠んだ一首を見つけて、光源氏は明石の君の胸中を思う。自らが贈った白い装束の映える優雅さにも心惹かれ、紫の上の焼きもちを承知で、光源氏は元日の夜を冬の町で過ごした。
案の定、翌朝帰ると、紫の上は口をきいてくれない。
二日、臨時客の日には公卿や親王たちが六条院を訪れ、管絃の演奏も行われた。若い公卿には玉鬘めあての者たちもいる。
また数日後、光源氏は末摘花や空蝉のいる二条東院を訪い、二人以外の女たちにも皆、声をかけて回った。普(あまね)く優しい光源氏のもとには、彼を頼りに生きている女が大勢いるのだった。
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年賀状に描く「新春」「初春」という言葉。変だと感じたことはなかったろうか。京都の場合、一月は底冷えがして、平均気温も一年中で一番低い。元日はそんな寒い日の幕開けなのに、それを「春」だとは。
実は、日本で元日がこの寒い時期になったのは、ほんの百四十年ほど前の一八七三年のことだ。それまで日本は、旧暦を使っていた。それを西洋に合わせて、明治五(1872)年を十二月二日で終え、あとは端折って翌日を元旦とした。一カ月ほどの前倒しとなったのだ。
だから昔ながらの行事が言う「お正月」とは、現在の二月初旬前後に当たる「旧正月」と呼んでこの時期に新年を祝う習慣も、アジアの国々にはまだ多い。
さて、そんな初春、平安人は大いにお正月行事を楽しんだ。まずお屠蘇。実はただのお酒ではない。宮廷では元日から三日間、特別に調合された薬を帝が飲む儀式「御薬を共(くう)ず」が行われた。お屠蘇はその「薬」として飲むもので、漢方薬を温かいお酒に溶かし込んだ、延命長寿・病退散・無病息災の効果があるとされた薬種だ。この儀式は一般にも行われていた。
「歯固め」は現在のおせち料理にあたるもので、中国由来の風習に倣って固いものを食べ、歯の根を鍛えようと図ったものだ。
また正月最初の「子」の日に、宮廷では若菜を食し、宴を催した。また貴族たちは野に出て若菜を摘んだり、小松の根を引いてその長さを競ったりした。「子の日」と「根延び」で洒落たものだが、松は長寿のしるしで縁起物でもある。
「粥杖」も面白い。正月十五日には宮中をはじめとして、小豆・粟などを米に混ぜた七草粥の儀式が行われた。その粥を炊いた薪の燃え残りを削ったものが「粥杖」である。貴族の家では、これで女性のお尻を叩くとめでたく男の子が生まれるとされ、こぞってお尻叩きに興じた。