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26- 平安人の心 「常夏(とこなつ・撫子の古名):夏の恋を秘めた花」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  猛暑の折、光源氏は十五歳になる息子の夕霧や内大臣(元-頭中将)の若君たちなどと、六条院の釣殿で涼む。やがて話題が、内大臣の落胤である娘・近江の君が見つかったことに及び、「昔から女性関係の華やかな人だったからね」と光源氏は冷笑する。それは光源氏が、内大臣が娘の雲井雁と夕霧との仲を引き裂いたことを、腹に据えかねているせいだった。とはいえ思いは玉鬘という内大臣のもう一人の落胤に及ばざるを得ず、内大臣と玉鬘を引き合わせようかどうか、光源氏の心は揺れる。

  光源氏は玉鬘のもとを訪れる。雑談に、内大臣が和琴(わごん)の名手であること、かつて玉鬘について口にしていたことなどを語ると、玉鬘は実父恋しさに涙をこぼす。その可憐さに光源氏はますます心を奪われ、もはや苦しいほどである。自分と結ばれても玉鬘にとって幸福ではあるまい。いっそ蛍兵部卿宮か髭黒大将に与えようか。最近では光源氏に慣れて嫌がりもしない玉鬘に、光源氏は悶々とするばかりだった。

  いっぽう内大臣は、例の落胤である近江の君に手を焼いていた。近江の君は、悪気はないが双六に興じ下品な早口でまくしたてる、とんでもない娘だったのだ。教育がてら、異母姉妹である弘徽殿女御への宮仕えを勧めると、近江の君は「便器掃除係でも良いから仕えたい」と言い出し、さっそく滅茶苦茶な和歌を作って女御におくりつける始末である。困ったご落胤に周囲はあきれ、笑い者にするのだった。
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  辞書では、「落胤」の意味は「高貴な男性と、正式な妻ではない女性との間の子ども」とある。平安時代の「正式な妻」をどの範囲と考えるかは微妙だが、例えばいわゆる不倫関係は、明らかに「非正式」だ。ならば、高貴な男性が身分下の女性と不倫スキャンダルを起こした場合、生まれた子供は「ご落胤」となる。
  例えば冷泉天皇(950~1011年)の第四皇子・敦道親王は和泉式部と愛し合い、二人の間には男子が生まれた。和泉式部がまだ中宮彰子の女房として宮仕えを始める前の話だ。親王は和泉式部を「妻」と呼んだが、和泉式部は身分違いのうえ、実は夫のある身だった。だからこの男の子は、親王のご落胤である。ただ親王はこの男の子が生まれて間もなく亡くなり、男の子は岩倉の寺に身を寄せ僧になる道を歩んだ。「和泉式部集」には、離れて暮らす息子に粽(ちまき)や草餅を贈って案ずる母心の歌が幾つも記されている。

  また、貴公子が女房に産ませた子どもも、典型的なご落胤である。和泉式部の娘・小式部内侍は、母に似た恋愛体質の持ち主だったのだろう、貴公子との華麗な恋を繰り返した。藤原道長の息子・教道との恋では、男の子が生まれた。そのとき道長が詠んだ歌が
― 嫁の子の小鼠いかがなりぬらん あなうつくしと思ほゆるかな ー
 (嫁の赤ん坊の小ネズミさんの様子はどうだ? 心から愛しく思えてね)
である。。「子鼠」と呼ぶからといって見下しているのではない。正式な嫁でない小式部を「嫁」とまで呼び、その子を孫と認めて可愛く思っているのだ。この子もやがて僧となり、静円と名乗った。

  紫式部の娘・賢子も、女房仕えの中で多くの恋を体験し、藤原兼隆との間には女の子がうまれた。賢子が二十六歳の頃である。兼隆は道長の兄で、一時は関白にもなった道兼の子で、賢子と関係のあった当時は既に四十一歳の中納言だったから、これは貴公子というより中年セレブとキャリアウーマンの婚外恋愛である。しかも宮廷では周知の関係で、やがて時の東宮に皇子が生まれたとき、「紫式部の娘がちょうど兼隆様の御子を生んだので」と賢子は乳母に抜擢された。皇子はやがて即位して後冷泉天皇(1025~1068年)となり、賢子は乳母を務めた功績で女性ながら三位(さんみ)の位を与えられたのだから、振り返ってみればご落胤を産んだことが賢子(大弐三位:だいにのさんみ)の人生を大きく飛躍させたことになる。
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