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25- 平安人の心 「蛍:玉鬘の悩ましさ 光源氏はその美貌に心を奪われる」

2021-07-16 12:43:38 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  玉鬘に慕情を告白して以来、光源氏はしばしば玉鬘のもとに足を運んでは、人のいない隙に想いをほのめかすようになった。素知らぬふりであしらう玉鬘だが、その美貌は光源氏の心を捕らえて離さない。

  求婚者のなかで特に真剣な様子なのは、光源氏の異母弟の蛍兵部卿宮だった。光源氏は宮から玉鬘への恋文の返事を女房に代筆させ、宮を呼び出すと玉鬘の側に控え、用意していた蛍を放した。ほのかな光が玉鬘の姿を照らし出し、光源氏のもくろみどおり、宮はますます恋心を募らせた。

  梅雨の長雨の時期、六条院の女君たちは物語につれづれ(つくづくと物思いにふけること)を慰めた。ことに玉鬘は、自分の数奇な人生を重ねつつ読みふけった。光源氏は玉鬘の部屋を訪れて物語談議に花を咲かせ、それにかこつけても玉鬘に言い寄る。だが春の町に戻ると、恋物語は明石の姫君に読ませるなと指図する。姫の継母・紫の上を慮(おもんばか)り、継母物の物語も読ませない。養女ならぬ実の娘の教育にはかくも細かい注意を払う光源氏だった。

  夕霧は雲居雁を想い続け、本人にだけは情を伝えていたが、二人を冷酷に引き離した雲居雁の父・内大臣(元、頭中将)の仕打ちを忘れず、意地のため平静を装っていた。その内大臣は、かつて恋人・夕顔との間にもうけて行方知れずとなった娘が思いきれず、夢占いなどをさせていた。娘とは、ほかならぬ玉鬘のことである。占師の答えは「人の養女になっている」。しかし内大臣には見当もつかないのだった。
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  平安時代の色男といえば、まずは在原業平の名が浮かぶだろう。だが恋多き男性は業平ひとりではない。例えば、陽成天皇(868~949年)の一の皇子・元良親王(890~943年)も、数々の逸話を残す人物である。陽成天皇といえばその母親の藤原高子(たかいこ)と業平の駆け落ちが「伊勢物語」に記されて、実は陽成天皇は業平の子ではないかと囁かれた天皇だ。その皇子とあれば、元良親王は業平の孫である可能性もある。
  元良親王の代表作
― わびぬればいまはた同じ難波なる 身を尽くしても逢はむとぞ思ふ ー
小倉百人一首にも入ってよく知られた歌だ。意味は「困り果てたことになってしまったからには、今はもう同じこと。難波潟の澪標(みおつくし)の名のように、破滅してでも君に逢いたいと思うよ」。
  激しい詠みぶりは、歌が詠まれた状況による。宇田法皇(867~931年)の御息所・褒子(ほうし)との秘密の恋が世に漏れて、にっちもさっちもいかなくなった中で詠んだ歌なのだ。業平は清和天皇(850~880年)に入内する直前の高子と恋に落ちたが、元良親王の恋はさらに過激だった。同じDNAのなすわざかと、ますます疑惑が深まってしまう。

  宇田法皇は元良親王より二十三歳も年上で時に五十代ながら、出家後も後宮に数多(あまた)の女性を置く艶福家だった。なかでも褒子は法皇のお気に入りで、三人の子を産み、河原院(源融の死後亡霊の出る邸、法皇が持ち主になった:4-夕顔を参照)にも伴われた。親王の想いは褒子に届いたが、逢瀬はままならず、親王の心はいやましに燃え上がる。

  だが元良親王の多情が原因で、褒子は結局親王のもとを去ることになる。褒子は、世の噂と親王の身勝手の両方に苦しめられて、自ら身を引いたのだ。


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