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山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
内大臣(元、頭中将)の落胤である近江の君の行状は、今や世間の噂の種である。光源氏は、内大臣が深い思慮もなく近江の君を探し出して引き取り、自分のめがねに適わないと分かるや、娘の弘徽殿女御の女房として出仕させたことを、強く批判する。それは玉鬘にとって戒めとなった。父(内大臣)の気性も知らず唐突に名乗り出たりしていれば、玉鬘も近江の君同様に扱われていたかもしれないのだ。光源氏が強引に玉鬘をわがものにしようとせず、包容力のあることも手伝い、玉鬘は次第に光源氏に心を許すようになる。
季節が変わり、秋風に恋情を抑えかねて、光源氏は足しげく玉鬘を訪ねる。日がな二人で過ごし、内大臣にちなむ和琴を玉鬘に教えたりもする。夕闇の中、二人は琴を枕にして夜更けまで横たわった。男女の間柄へと、一線を越えるまでわずかである。だが光源氏は、女房たちの目を気にして自制する。去ろうとしながら、共人に命じて焚かせた庭先の篝火に、玉鬘の姿が照らされて美しい。光源氏は篝火の煙のように狂おしく燃え立つ想いを歌に詠んだが、玉鬘の返歌はそれをうまくはぐらかすものだった。
そこへ夕霧と内大臣の息子たちの奏でる楽の音が聞こえてくる。光源氏は彼ら若者を呼び、玉鬘の御殿の前で演奏させる。光源氏の温かいはからいで柏木ら実の弟たちの演奏を間近に聴くことが出来た玉鬘は、しみじみと耳を傾けるのだった。
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内侍司(ないしのつかさ) 尚侍(ないしのかみ) 典侍(ないしのすけ) 内侍(ないし) 掌侍(ないしのじょう) 命婦(みょうぶ)
光源氏の養女、玉鬘。彼女はやがて時の冷徹帝のもとに、朝廷の内侍司(ないしのつかさ)の長官である「尚侍(ないしのかみ)」として出仕することになる。この尚侍に率いられる、総勢百人を超える女官たちのうち、上級にあたる者を「内裏女房」と呼ぶ。いわば女性国家公務員の幹部である。ここでは、自立して上を目指す女たちの憧れの職であった。
「枕草子」-「女は」の段には「女は典侍(ないしのすけ)。内侍(ないし)」とある。「女が就く仕事なら、典侍か内侍ね」ということだ。典侍とは、玉鬘が就いた尚侍のすぐ下の職、内侍司の次官である。また内侍とは、掌侍(ないしのじょう)ともいい、典侍の下の三等官だ。
当時の行政法の一つである「後宮職員令(ごくしきいんりょう)」によれば、内侍司には尚侍が二人、典侍が四人、掌侍が四人と定められていた。だが尚侍は多くの場合一人しかおらず、しかも「枕草子」や「源氏物語」の少し前の時期からは、純粋な女官というよりも天皇のきさきの一人という立場に傾きつつあって、叩き上げの女官がたどり着けるのは典侍か掌侍となっていた。
朧月夜はこうした状況の中で落下傘的に后妃待遇の尚侍になったので、実はその下にいた源典侍(げんのないしのすけ)こそが、実務女官のトップだったことになる。さて典侍と掌侍の下には命婦(みょうぶ)と呼ばれる中級の女官が多数いて、ここまでが憧れの内裏女房である。男性の秘書官を「蔵人(くろうど)」と呼んだが、内侍司の女房たちはまさに天皇の女性秘書官だったと言ってよい。
秘書官であるからには、ほかにも仕事はいろいろあった。「紫式部日記」によれば、紫式部が仕えた中宮彰子の御産の折には、内裏女房たちも分娩室近くに控えた。貴族とは違って妻の出産に立ち会えない天皇が、名代として遣わしたのだ。めでたく皇子が生まれた後にも、内裏女房たちは大勢で祝いにやって来た。紫式部は一人一人の名を書き留めている。彼女たちが車で乗りつけると、応対に出たのは邸宅の主で彰子の父でもある藤原道長である。内裏女房は貴族の最高権力者からも一目置かれる存在だったのだ。それは彼女たちがきわめて天皇に近いうえ、宮廷の政治や人事や、その裏事情にも通じていたからだ。つまり内裏女房は、それぞれの地位や仕事の軽重以上に、厳然たる力をもっていたのである。
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