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3.紫式部の恋 晩桃花 (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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宣孝の正体は紫式部の父方のまたいとこ(掲載図参照)
実は宣孝は、私にとって父方のまたいとこにあたる。父にとっては、花山天皇時代に同じ六位蔵人(くろうど)として働いた同僚でもある。ただ、宣孝は父が蔵人になる前、円融天皇の代から既に蔵人を務めていた。つまり円融天皇にも花山天皇にも近かったのだ。その一点からも知れる通り、父とは正反対に世渡り上手な人だった。
私の家系は曾祖父兼輔の後うだつが上がらなくなった。もう一人の曾祖父定方の男子たちは命脈を保っていた。うち五男の朝忠様は、中納言の職に昇られたうえ、「後撰和歌集」に歌が採られたり、村上天皇の時代の伝説的歌合わせ「天徳内裏歌合」で名誉にも第一首目を詠んだりと、公卿と歌人の両面をもつ方だった。
加えて女性関係が実に華やかで、「後撰和歌集」に載る歌のすべてが女に係わっている。宣孝にとっては大伯父にあたり、女好きな所がそっくりだ。この方のお嬢様が、やがて左大臣源雅信様に嫁がれ、今道長様の奥様である倫子を産んだ。だから宣孝は、倫子様にとってもまたいとこにあたる。
朝忠様の弟で宣孝の祖父にあたる朝頼も、恋歌が「後撰和歌集」に採られている。この人は公卿にもう一歩届かなかったが、その息子為輔は権中納言に達した。宣孝の父だ。宣孝は母親も参議の娘だから、悔しいが私より家格は上だ。宣孝の姉妹も藤原佐理(すけまさ)の妻になっていて、れっきとしたものなのだ。そう考えると、なぜ宣孝が私のような、ぱっとしない父親を持つ、薹の立った(とうがたつ:野菜などの花茎が伸びてかたくなり、食用に適する時期を過ぎる。盛りが過ぎる)娘などを妻にしようと思ったのか分からない。
だが一つだけ思い当たる所がある。年齢だ。私の歳は世間から言えば嫁ぎ遅れていたが、宣孝の他の妻に比べればずっと若かった。宣孝は、長男の隆光が私とほぼ同い年で、私とは父と娘ほどの歳の差があったのだ。私は彼にとって、私の知るだけでも少なくとも第四の妻だった。
宣孝との結婚のため、私は京の自宅に戻った。結婚は長徳四(998)年の春だった。
その時、家の中には桜の折り枝が飾られていた。ところが桜の命は短く、見る間にはらはらと散ってしまった。私は桜から庭の桃の木に目を移した。折から桃の木も花を咲かせていたのだ。
桃は中国でも日本でも、長寿をことほぐめでたい木として知られている。漢詩でもおなじみの花で、例えば
「桃の夭夭(ようよう:若若しく美しいさま)たる 灼灼(しゃくしゃく:明るく照り輝くさま)たりその花」(「詩経」周南「桃夭(とうよう)」)
で始まる有名な古歌謡は、嫁入りする若妻を桃に喩(たと)えたものだ。私も宣孝の妻になる。この詩の妻のように若くはないけれど、桃の花にあやかって、せめて長く添いとげる妻になりたい。桃に寄せてそんな思いがこみ上げる。
この時私の奥深くに、一篇の詩が浮かんだ。唐の白居易の詩だ。
次回「晩桃花」につづく 白居易の詩と紫式部の桃の花の歌
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