7-前半.紫式部の育った環境 優雅な曾祖父たち (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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優雅な曾祖父たち
定省(さだみ)様が即位して宇多天皇となる前に、胤子は男子を産んでいた。これが、後の醍醐天皇だ。宇多天皇は基経様も娘の温子様を入内させたが、その方は内親王様しかお産みにならなかったのだ。胤子の快挙は、一族に僥倖をもたらした。醍醐天皇の治世下で、胤子の弟定方は帝の外戚として大躍進した。
ただその政治家としてのあり方は、同じ時期に肩を並べていた藤原氏主流派の政治家たち、基経様の息子の時平家や忠平様(図の系図5)とは随分違っていた。
時平様は漢学の家から右大臣にまで達した菅原道真を疎んで、大宰府に流してしまった。道真が大宰府で傷心の死を遂げた後、時平家がまるで祟られるように三十九歳で亡くなってからは、それを奇貨(きか:利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会)とした忠平様の時代となる。
忠平様やその御子孫は、道真への罪を時平様一人にかぶせて、自分たちとは切り離した。そうした陰謀や政争や口ぬぐいを繰り返しては生き延びるのが、義房様に始まる藤原氏主流派の方法だ。それに比べれば私の曾祖父たちは、余りに穏やかだった。穏やか過ぎた、とも言えるかもしれない。
貴族社会に属するなら誰もが持っている「古今和歌集」、そして「後撰和歌集」。私はそれを開くたびに陶然とする。私の曾祖父たちの偉業が記しとどめられているからだ。だいたい「古今和歌集」の選者として名高い紀貫之などは、曾祖父兼輔の家に出入りの歌人だったのだ。兼輔は宴の度に貫之を呼び、歌を詠ませて褒美を与えた。「後撰和歌集」にはそうした折の歌が幾つも収められている。兼輔家の藤の宴には、同じく曾祖父の定方を招いたこともあった。
藤原氏の名家では、しばしば邸宅の庭に藤の木を植えて、自邸の記念樹としていた。
つづく