3.中関白家の凋落
山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集
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3.中関白家の凋落
ところが、幸福は長く続かなかった。長徳元(995)年、父の道隆が四十三歳で死亡したのである。伊周(これちか)は父の後を受け継いで最高権力者の座に就く算段ををしていたが、二十二歳の若さとあって、さすがにそれはならなかった。いくつかの経緯を経て、結局関白の座は空席のまま、天皇が公卿最上位に据えたのは、道隆の末弟・藤原道長であった。
伊周は荒れた。そして翌長徳二(996)年、誰も予測しなかった大事件を起こしてしまう。彼はあろうことか、弟と謀って前帝・花山院(998~1008)を襲い、矢を射かけたのである。花山院が伊周の愛人に横恋慕していると勘違いしたのが動機だと、「栄華物語」(巻四)は言う。
ただし、調べると他にも余罪があった。一条天皇の母を呪詛(じゅそ)した罪。政権争いで道長を推したことを怨んでという。
また、天皇家以外には催行を許されない仏事「大元師法(たいげんのほう)」を秘密裏に行ったこと。道長から政権を奪還するための祈祷であったとおぼしい。
これらは天皇家の人々を標的とする暗殺行為や天皇家の権威の侵犯とみなされ、一条天皇は彼を断罪せざるを得なかった。世に言う「長徳の政変」である。
この時、折しも定子は、天皇との初めての子を身ごもり、実家に帰っていた。そこに伊周逮捕の勅使がやってきた。定子は兄と手を携え、行かすまいと阻止した。検非違使らが手をこまねくうち伊周が姿をくらましたため、邸には家宅捜索の手が入ることとなった。
京中の貴顕から庶民までが野次馬と化して邸を取り囲みごった返すなか、邸内からは家人のすすり泣きの声が聞こえたという。天井裏から床下までを探り、果ては寝室の壁を破るほどの大捜索のさなか、絶望した定子は自ら髪を切り、二十歳という若さで出家した。(以上、「小右記」長徳二年四月二十四日~五月二日)。
女性の出家は夫との離別を意味したので、定子はこの時点で実質的には一条天皇の妻ではなくなったが、中宮の称号のみは残された。
貴族の諸日記は出家後も彼女を「中宮」と呼び続けている。長徳の政変の後も定子には不運が続き、邸宅が全焼した。身を寄せた縁者、高階明順(あきのぶ)の宅で、十二月十六日には皇女・脩子(しゅうし)内親王が生まれたが、「日本記略」(同日)はそれを妊娠十二ヵ月での出産と記す。にわかには信じがたいが、胎児の発育が遅れるほどの心労がが母体を襲っていたということか。
これだけでも、「紫式部日記」が言う「ぞっとするほどひどい」状況に適っている。後の章で詳しく述べるが、実は「枕草子」の執筆が本格的に開始されたのはこの頃である。「春は、あけぼの」をはじめとするあの明るい章段たちは、実は定子の周囲を覆っていた闇の中から生まれたのだった。