8.小野小町の歌の海辺幻想
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版
小町の歌には花に寄せた物思いが意外に少ないが、それは取り立てていうべきことでもなく、むしろ、恋の歌に海辺の語彙が多いことの方に注目がされる。小町のような後宮の女性にとって、実際に海を見る場面はなかなかない。
小町は海を、いったいどのようなものと考えていたのだろう。歌でみてみよう。
対面(たいめ)しぬべくやとあれば
みるめ刈る蜑(あま:海女)の行きかう湊路になこその関もわれはすゑぬを
人のもとに
わたつ海のみるめは誰か刈りはてし世の人ごとになしといはする
つねに来れどえ逢わぬ女の、恨むる人に
みるめなきわが身をうらと知らねばやかれなで蟹の足たゆく来る
この三首に使われている共通の海の素材は「みるめ(海草)」である。もちろん「見る目」との掛詞。一首目の「蜑(あま:海女)」は景物として使われ、三首目は相手の男を比喩している。小町の脳裏には万葉以来の風景として、「みるめを刈る蜑」の姿に象徴される海浜風景があり、「みるめ」は恋の歌のモチーフとして新鮮な野趣を加えられると考えたのであろう。
「古今集」に「みるめ」を使った恋の歌は数首あるが、海辺の実質はなく、形骸化した言葉遊びとなっていく方向にある。
その中で小町の海辺の景には動きがあり、たとえば一首目なども「みるめ」を刈り採る蜑が行きかう海浜風景を動的な比喩として上句に据えている。その上これは、相手からの誘いにかなり乗り気な小町のいそいそとした心の動きが下句に直截に詠まれていて、気分のいい承諾の歌である。
(投稿者補足:なこそ(勿来)の関など私はすゑぬ(置かない)ので、どうぞ逢いにきて---/ なこそ(勿来)の関;古代の奥羽三関の一つ、場所は諸説あり)
二首目の方は、「みるめ」がなくなってしまった歌で、来ない男に、「世間の人に聞かれると、もうあの人は来なくなったのです、と言わせていますが、それでいいのですか」と問いかけている。少し未練な、さびしい小町がここにはいる。
三首目の歌は詞書が面白い。「男はうるさいくらい頻々とやってくるが、女は一向に逢おうとしない。男はそれを恨む。その嫌いな男に言ってやった歌」というのである。
歌の構成も巧緻で小町の言葉わざがみえるものだが、内容はとなるとめったにないきびしさだ。「私のことをたとえていえば、あなたがお求めの海松布(みるめ)など全く採れない浦ですよ。お会いしたくありません。だのにあなたは、そんなことさえわからないのか、この浦のあたりを離れもせずに、まるで蜑(あま:海女)であるかのように足しげく通ってくる」と手きびしく貶めている。
つづく (次の予定も「小野小町」)