抑同国人同士に於いても「これは赤い色である」と複数の人が言った時、各々の内面にある「赤」が全く同じ色である保証などありはしない。正常な色覚を持つ人と異常な色覚を持つ人とで異なるのは当然であり、それほど極端で無くとも微妙な差異がある事は十分考えられる。
色に限らず言語でも同様で、「関係」でも他の言語でも、それがそれぞれの人の内面で成して居る形、即ち言語という紙の裏面である概念や論理が完全に同一である事など、寧ろあり得無いと云って良かろう。ただ実用上殆ど同一と見做して良かろうとの類推に依り吾人は、紙の表面である言語を使って会話し、議論し、論考し、読み書きして居るのであろう。
併しその類推自体も又一枚の紙の裏表の様なものである言語や論理などを使ってするしか無いので、それではその類推に使う言語の同一性は(?)と考えて行くと限りない堂々巡りに陥ってしまうのでどこかで断ち切らざるを得ない。詰り不完全と解っている言語や論理ではあるが、吾人のよすがとすべきものはそれら以外に無さそうである。この面からも人間というものの不完全さをつくづくと思わせられるのである。(続く)
色に限らず言語でも同様で、「関係」でも他の言語でも、それがそれぞれの人の内面で成して居る形、即ち言語という紙の裏面である概念や論理が完全に同一である事など、寧ろあり得無いと云って良かろう。ただ実用上殆ど同一と見做して良かろうとの類推に依り吾人は、紙の表面である言語を使って会話し、議論し、論考し、読み書きして居るのであろう。
併しその類推自体も又一枚の紙の裏表の様なものである言語や論理などを使ってするしか無いので、それではその類推に使う言語の同一性は(?)と考えて行くと限りない堂々巡りに陥ってしまうのでどこかで断ち切らざるを得ない。詰り不完全と解っている言語や論理ではあるが、吾人のよすがとすべきものはそれら以外に無さそうである。この面からも人間というものの不完全さをつくづくと思わせられるのである。(続く)