以前こんな事がありました。
電車に乗っていた時の事なのですが・・・。
その時は昼間の時間でしたから、それほど混んではいなかったのですが、それでも座席は空いた所がなく、数人が吊り革につかまって立っていました。
何駅か過ぎた時にドアが開いて、そこにお婆さんが入って来たのです。
お婆さんは、空いた席がないかと辺りを見回していましたが、その時、近くの席に座っていたお爺さんが、ニコニコした愛想の良い顔で、やさしく「どうぞ!」と言ってそのお婆さんに席を譲りました。
電車の中で、お爺さんがお婆さんに席を譲るという、老人同士の微笑ましい光景を初めて見たものですから、私は「今日は面白いものを見たぞ!」と思い愉快な気分になっていました。
それから数駅が過ぎて、そのお婆さんが「どうも」とお爺さんに頭を下げて立ち上がり、ドアから出て行ったのですが、その時、そのお爺さんが突然立ち上がり、座席に座っている人達みんなを見渡してから、大きな声で「今の若い連中ときたら!お婆さんに席を譲る事も出来やしねえ!」と怒鳴り散らしたのです。
私はビックリして、先ほどの微笑ましい光景や愉快な気分が、一変に吹き飛んでしまいました。
この時のお爺さんの顔は、人を軽蔑的に見る、非常に醜い顔の表情になっていたのです。
私は考えました。
このお爺さんは、人に対する「人情」からお婆さんに席を譲ったというよりも、若い人達を軽蔑し「批判」する精神から席を譲ったのではないか?・・・と。
またこのお爺さんの心の中では、まず「老人に席を譲る事は「正しい事」「良い事」。
そしてそれを実行している自分は「正しい人」「良い人」。
ゆえに席を譲らない若者は「正しくない人」「間違った人」。
だから怒鳴り散らしても間違いではない。
自分のやっている事は「正しい事」「良い事」である。
こういう頭の構造ではないかと思えたのです。
私はこれに似た「醜い顔の表情」を以前にも見ているのです。
それは、ある時駅の改札から出ると、すぐ近くに募金活動をしている人達がいたのです。
何処か外国で災害があり、その為の募金活動をしているようでした。
私がその前を通り過ぎようとすると、一人の若者が私の前を塞いで、募金箱を差し出しました。
「失礼な奴だな」とは思いましたが、私がそれをよけて先に進もうとすると、今度はその若者は私を追いかけて来て前に回り、私の目の前に募金箱を突き出しました。
この時の若者の顔・・・。
この時の若者の顔は、被災者を思う「愛情に満ちた顔」や「理知的な顔」ではありません。
募金活動に協力しない人間を軽蔑的に見る非常に醜い顔の表情でした。
私は非常に不愉快な思いをしました。
募金活動の常識、礼儀として、通行人の邪魔をしたり、追いかけたり、無理に募金を要求したりという事は、やってはいけない事だと思います。
また募金にも色々あって、活動している組織や連絡先の分からないもの、というよりも教えようとしない、いい加減なものもあり、これには絶対に協力しません。
私は募金活動の全てに協力しようとは思っていません。
ですから一つの募金活動に協力しないからといって、人間として軽蔑されたり、不愉快な思いをさせられたりする事は、どう考えても納得がいかないのです。
私は思うのですが、こういう風に「醜い顔の表情」をする人達というのは、自分達のやっている事は「正しい事」「良い事」であり、自分達は「正しい人」「良い人」である、という意識を強く持っている人達ではないかと思うのです。
だから自信満々に行動する事が、出来るのではないかと思います。
私は「良い人」と「お人好し」とを分けて考えています。
私が考える「良い人」というのは、他人から「あの人は良い人ですよ!」という客観的な評価を受けている人の事です。
また私が考える「お人好し」というのは、自分だけの判断で「自分は良い人である」と思い込んでいる人の事です。
人生数十年も生きていますと、「自分は正しい人」、「自分は良い人」、「自分はやさしい人」と思い込んでいる人達ほど、他人に対して「人が嫌がる事」を平気でやっている人達なのだ、という事がだんだん分かって来るのです。
電車に乗っていた時の事なのですが・・・。
その時は昼間の時間でしたから、それほど混んではいなかったのですが、それでも座席は空いた所がなく、数人が吊り革につかまって立っていました。
何駅か過ぎた時にドアが開いて、そこにお婆さんが入って来たのです。
お婆さんは、空いた席がないかと辺りを見回していましたが、その時、近くの席に座っていたお爺さんが、ニコニコした愛想の良い顔で、やさしく「どうぞ!」と言ってそのお婆さんに席を譲りました。
電車の中で、お爺さんがお婆さんに席を譲るという、老人同士の微笑ましい光景を初めて見たものですから、私は「今日は面白いものを見たぞ!」と思い愉快な気分になっていました。
それから数駅が過ぎて、そのお婆さんが「どうも」とお爺さんに頭を下げて立ち上がり、ドアから出て行ったのですが、その時、そのお爺さんが突然立ち上がり、座席に座っている人達みんなを見渡してから、大きな声で「今の若い連中ときたら!お婆さんに席を譲る事も出来やしねえ!」と怒鳴り散らしたのです。
私はビックリして、先ほどの微笑ましい光景や愉快な気分が、一変に吹き飛んでしまいました。
この時のお爺さんの顔は、人を軽蔑的に見る、非常に醜い顔の表情になっていたのです。
私は考えました。
このお爺さんは、人に対する「人情」からお婆さんに席を譲ったというよりも、若い人達を軽蔑し「批判」する精神から席を譲ったのではないか?・・・と。
またこのお爺さんの心の中では、まず「老人に席を譲る事は「正しい事」「良い事」。
そしてそれを実行している自分は「正しい人」「良い人」。
ゆえに席を譲らない若者は「正しくない人」「間違った人」。
だから怒鳴り散らしても間違いではない。
自分のやっている事は「正しい事」「良い事」である。
こういう頭の構造ではないかと思えたのです。
私はこれに似た「醜い顔の表情」を以前にも見ているのです。
それは、ある時駅の改札から出ると、すぐ近くに募金活動をしている人達がいたのです。
何処か外国で災害があり、その為の募金活動をしているようでした。
私がその前を通り過ぎようとすると、一人の若者が私の前を塞いで、募金箱を差し出しました。
「失礼な奴だな」とは思いましたが、私がそれをよけて先に進もうとすると、今度はその若者は私を追いかけて来て前に回り、私の目の前に募金箱を突き出しました。
この時の若者の顔・・・。
この時の若者の顔は、被災者を思う「愛情に満ちた顔」や「理知的な顔」ではありません。
募金活動に協力しない人間を軽蔑的に見る非常に醜い顔の表情でした。
私は非常に不愉快な思いをしました。
募金活動の常識、礼儀として、通行人の邪魔をしたり、追いかけたり、無理に募金を要求したりという事は、やってはいけない事だと思います。
また募金にも色々あって、活動している組織や連絡先の分からないもの、というよりも教えようとしない、いい加減なものもあり、これには絶対に協力しません。
私は募金活動の全てに協力しようとは思っていません。
ですから一つの募金活動に協力しないからといって、人間として軽蔑されたり、不愉快な思いをさせられたりする事は、どう考えても納得がいかないのです。
私は思うのですが、こういう風に「醜い顔の表情」をする人達というのは、自分達のやっている事は「正しい事」「良い事」であり、自分達は「正しい人」「良い人」である、という意識を強く持っている人達ではないかと思うのです。
だから自信満々に行動する事が、出来るのではないかと思います。
私は「良い人」と「お人好し」とを分けて考えています。
私が考える「良い人」というのは、他人から「あの人は良い人ですよ!」という客観的な評価を受けている人の事です。
また私が考える「お人好し」というのは、自分だけの判断で「自分は良い人である」と思い込んでいる人の事です。
人生数十年も生きていますと、「自分は正しい人」、「自分は良い人」、「自分はやさしい人」と思い込んでいる人達ほど、他人に対して「人が嫌がる事」を平気でやっている人達なのだ、という事がだんだん分かって来るのです。
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