日々の泡

こころに浮かんでは消え、消えては浮かぶ
日常のありふれた風景をスケッチ

ただものじゃない!

2015-01-30 09:46:04 | 日々
2、3日間 ちょっとした余韻に浸っていました。人生って、つくづく(直線ではなく)螺旋だな、って。ワタシの場合、ひとつ気になるキーワードが現れると、日常の中に連想ゲームのように、次々に「繋がっている」ような出来事が起こる。

ワタシの場合なのだが、日常でもしょっちゅう「あ、この人ただものじゃないぞ♫」って感じ取るセンサーが働くの。なにに対して、とか、なにを指して「ただもの」というのか自分でもわかっていないんだけどね(笑)例えば、たまたまガスの点検にきた人、とか、町のなかでただ会って、たまたま一言二言会話を交わしただけ、とかの人に対しても。

先週末みた映画のなかに、強烈な印象残しまくりの人たちがいたのです。
面白いことに二人とも演技経験のない素人さん。いわれれば、そう。役者さんみたいな演技してなかった。だけど、逆に、役者さんは、あんな演技できない。
沖田修二監督の映画の中に実際、その出演者の役にむかって「ただものじゃない。」って言うセリフが出てくる!?
「ああ、これは、監督の本心なんだな~」って笑っちゃった。(ちなみに妙高の八千草薫と呼んでいる、とかいないとか!)上映後の観客からの質問で(女優さんである出演者の方へ)「素人さんとお芝居をして、いつもと違った感じとかなかったですか」との質問。その答えも素敵なものでした。チームワークのよさがもの凄くあらわれていて、現場はさぞかし楽しかったんだろうな、というのが伝わってきました。

もうひとりは、「水の声を聞く」の中に。(2/6まで仙台クリスロードにある桜井薬局セントラルで上映)
この方の場合は、「なぜこんな風に表現できるのか」まったくわかりません・・・・知るのが、ちょっと怖い気もします・・・

ま、でも・・・一番「ただものじゃない」のは、監督さんおふたり、に間違いないです。ワタシの経験から、ただものじゃない本物の人(ワタシが好き、って思う)って、ふだんの顔は、気さくなただのおじさん、を装っていることが多いです!(笑)。誰よりも愛に溢れていて気使いしい、だったり。そんな方々にワタシ、たくさん出会えてきたなあ・・と思って、何かに(なんだろ?)感謝せずにはいられません。少しでも自分の血肉にしたいです。

昨日本屋さんに行ったら(九年前の祈りが読みたい!)大林宣彦監督のインタビューが載っている本をみつけて立ち読みしちゃいました。「野のなななのか」には、本当に感動したから。この作品を作ることになった経緯とか、監督のこれまでの映画人生のことが書いてあって胸があつくなっちゃいました。
映画を取り巻く環境って、今も厳しいのに、どんどんこれからも厳しくなっていくんだろうな、って。
でも、人間が求め続けるものであるなら、人が感じるなにかをそこに込めることのできた作品なら、どんな形でも残っていくと思うし、映画には、そんな力があるように感じます。素晴らしい才能と作品、見せ続けてください、です。

先週末は

2015-01-26 11:52:40 | 映画・音楽
土曜、日曜ともに映画鑑賞(どちらも監督挨拶あり!)
まずは、土曜日仙台にて。「水の声を聞く」
ワタシ、去年12月27日のブログで、この作品のことにちょっと触れてますね~

この作品に興味を持ったのは、昨年強行スケジュールで行った、「上野毛映画祭(バンドワゴン)」を観に行った時に手にしたフライヤーがきっかけ。「この美しい女優さんは誰なのかしら?」って。あと、「タイトルが好き!(笑)」観る事ができるとは思っていませんでしたが。。。

内容は、、、、宗教の話ではありませんよ(笑)。時代の空気を切り取って、すごくよくできた作品なんです。台本があったわけではなく、出演者の顔ぶれをみて作った脚本、なんて驚きです。(このあたり、興味がある方は、HPなどで読んでみてください。)「うさんくさいものから現代を描いてみたかった。」という山本政志監督素敵すぎです☆
当然いろいろな見方ができるわけですが、ワタシはなんか・・・最近よく思うんですけど(そして最近出会った言葉)「そもそも、わたしたちが宗教と呼んでいたものとは、まさに自然そのもの、のことなのではないか。」が、またまた浮かんだような気がしました。他にもいっぱいのこと。
出演者全員いきいきしていて、ほんとうに、素晴らしいです。ベルリン映画祭フォーラム部門の正式出品作です。仙台、桜井薬局セントラルにて上映中!!(監督、ありがとごんした

で、日曜日、前売り券を購入して楽しみにしていた「滝を見にいく」
こちらも・・・「水の音・・」とは全く違うのに、やはり素晴らしいんだな~
日本映画って、もしかして凄いのかも!
2作品に面白い共通点があります。・・・というか、沖田監督の話を聞いていてわかったのですが、そもそもこの(滝を見に行くを作ったきっかけ)企画というのは、「山本監督がプロデュースしているシネマ・インパクトが面白いから、沖田監督もそういったやり方で作ってみませんか?」ということなのではないか??(俳優志望の人が集まってWSから作った作品が面白いから、沖田監督もそういう作品を作ってみませんか?みたいな話がきたらしい)で、沖田監督の返事が「おばさんが、滝を見に行って山で迷う、っていうのはどうですか?」と答えたら「あ、それ面白そうですね。」だって!!(いいですね~素晴らしい)
沖田監督の方は、出演者を決めるオーディションの条件は唯一、「40歳以上の女性であること」(!!笑)一番オーディションに参加しそうにない層だからだって。

もうひとつは、2つとも水、がでてくる。滝のシーンが奇しくも、どちらの作品にも美しく存在する。自然も美しい。クライマックスシーンの大切な要素だ。

人間が、自然を背景とした時、自然があたりまえに美しく感じられて、人間のなにげない日常が愛おしいものに見えれば、まあ、オッケー
逆に、自然の美しさだけが際立って、人は一体なにをしてるんですか・・・そんな思いが生まれたら、未来のことをもう少し考えなければいけないのでは、と。そんな風にシンプルに考えて生きるのも悪い事ではないような気がしてしまいます。

「滝を見にいく」は、山形フォーラムにて上映中。充実した週末でした♫

不思議なもんだね~

2015-01-18 16:44:11 | 日々
ワタシ、20代後半、身体がだるくて体調が悪くて病院を受診したら、いきなり「癌の疑いあり。」って。
それでより詳しく検査したんだけど、結果は、良性と悪性の確率は五分五分(たぶん当時の医学の限界)。でも決して楽観できるようなものではないので、必ず検査で経過監察してください、と。実家の祖母に電話したら、いきなり電話口で泣かれてしまい。。。(祖母は若い時、看護婦長をしていたのです。)「ああ、ワタシ死ぬんだな」と。「若いから、進行も早いんだろうな。2年位は生きていられるのかな。」って、まるで他人事みたいに、ぼーっと。。。

その時思ったのは、ー想像ではわからないこと、ってあるんだな。
自分の死を意識したとき、人はなにを想うのか。
ワタシがその時思ったのは、
「世界は、なんて美しいんだろう。」

自分でも驚いた。普段は、こんな世の中やだ!とか、汚い事がたくさんある、って思っているのに。

「自分が今まで生きてきたこの世界は、ー青い空に白い雲が浮かんでる、穏やかな日差しだ~。木々の緑、なんて美しいんだろう。そしてワタシはこの美しい世界にお別れするんだ。」って!!

世界の見え方が変わっちゃう!そして自分の生き方も。あとどれくらい生きられるのかわからないのなら、残された時間をどう生きる?!あの時から、それを大切に考えるようになりました。本当の気持ちを一生懸命探す。(まだ、生きてるけど!笑)もし明日地球が終わっちゃうとしたら、何をしたい?って質問みたいな感じかな。

山形に帰ってきて、ほんとによかった!!(自分の知らない自分に出会えた。)

それからのことなんですけどね。癌の検査・・・言われたとおり、始めの頃は毎年。あとからは、一年おき検査続けました。集団検診だと必ずひっかかってしまうので、直接大きな病院で。そしてようやくこれは大丈夫、と言われたのが、2010年震災の前の年なのです。その間、疑いは残ったままといえども、十数年は生き続けたわけで。(これは一体どういうことなんだ?!)と。「たぶん大丈夫だよね。」と、最初の頃の悲壮感はなくなっていましたが。

不思議で面白いことがあったのです。最後に「今の医学の進歩では、これは無罪、と言うんです。よかったですね」と宣告してくれた先生(笑)なんと、十数年前、はじめて山形で検査をしてくれた先生だったのです(ワタシ、なぜか雰囲気を覚えてた)実は、外来は午前中で診察終わりなのですが、受付とワタシの間でお互いの思い違いがあり、午前中に診療を受けることができなかったのです。が、午後から特別に先生が診て下さるということになり、ぽつんと診察室で待っていたのです。そこへ、入ってきた先生、カルテを見るなり「こんなことってあるんだ。初診の時、ぼくが診てるんじゃないか~!!」って。もちろん、十数年も経っていますから、途中担当の先生は何度も変わっています(大きい病院なので)。びっくりしちゃいます。こんなことがたびたび起こってしまう自分に(笑)でも、死を意識した経験は、人生を変えてしまうほど意味のあることなんです。
次の年2011年には、また「人が死ぬ」ということに直面してしまいます。自分が死ぬということよりも、自分以外の大切な人たちが死んでしまうかもしれない、ということの方がずっと怖かった。実際に身内の方を亡くされた方々のことを思うと・・・・。

死ぬ、ということを考えるということは、
生きる、ということを考えることに、自然とつながっていくと思うんです。

先日、久しぶりに会う方と新年会と称してお話してたんですけど(面白かったー。ふふっ)
ワタシも過去の話なんかをしちゃって(歳とったからさっ)振り返ってみて、自分でも、なんでもやってみる(挑戦してみる)ということをしないで、自分がやりたいと思えなければ「やりません。」って。なんでもかんでも「やりません。」幼稚園児の「嫌々園」みたいだな~って(笑)ワタシのためを思って、チャンスを与えようとしてくれてる人に対して、ね~。ーいつも感謝はしていました。信じてもらえないかもしれないけど。どうしたらよかったんだろ?
今でこそ、あれは挑戦してみたかったかも。なんて思わなくはないこともあるけど、「未来を知ってから」では、ずるいでしょ。自分で納得できるのは、その時の自分の思いとか、なんで「嫌です、やりません」って答えたかの理由を今でもちゃんと言葉にできること。あの時、精一杯考えて出した答えは、あの時の自分そのもの。

いろいろな大きな災害や、世界各地の紛争
死が近いものになればなるほど、生きる意味を考えることも多くなる気がする。それは大切なこと。
そして、(ワタシにとって)「世界は、なんて美しい」って感じたあの時のことは、神様のくれた贈り物、のような気がする。


あの時とは違う。人生で大切なことは・・・

2015-01-16 09:36:40 | 日々
ワタシの場合「すべて、映画・演劇、そして時々音楽が、教えてくれた。」

世界各地で、まさに時代の転換期ともいえるような、いままでずっとマグマのようにくすぶり続けていた火種が、一揆に表面に現れてきたような混乱ぶりですね。(自然界も呼応してる。)
人間は、思っているよりも、あきれるくらい、がっかりするくらい、進歩も成熟もしていなかったのかもしれません。いざとなるとエゴとか、欲望がむき出しになってしまうものなのですね。普段どれだけものわかりのよい態度をとっていても。立派な発言をしていようと。混乱の時には、本性が出る、というのが人間の性なのかな。(ワタシもそれから免れる事はできない?)

「ああ、無情」って、いう本(「レ・ミゼラブル」です。)を読んだ時、世の中には難しい問題がたくさんあるんだ、ってはじめて思いました。小学生の時でした。生きるために一切れのパンを盗んだジャン・バルジャンの物語。その罪で牢獄に入れられて釈放された日に、宿と食事を提供してくれた神父さんの教会から銀の食器を盗む、という。ジャン・バルジャンは罪人なのであろうか。(法律的には罪人です。)ジャン・バルジャンと同じ境遇にあったとしたら、自分は罪を犯さないのだろうか?すごく考えたけど、本当に考えるべきことが、たくさんこの作品には含まれると感じていた。学校では、神父さんとの出会いがジャン・バルジャンを変えた、っていうところを強調して習った、という記憶があるけど・・・・・。今日本や、世界で起こっていることって、ものすごくこの作品に近いものを感じるのはワタシだけでしょうか。でも、人間として包み込むような眼差しで見守る神父のような存在はいなくて、代りに、ひたすら排除、の方向に向かおうとしている不寛容、だったり、それを利用した間違ったナショナリズム。

どうしてそんなことが起こるのだろう。もっと幸せな世界、未来はつくられないのだろうか。そんな風に考える人は多いと思う。で、宗教を研究したり、民族の歴史を研究に興味を持つことだってあるのではないかな。ー演劇だって。昔の演劇には、そういう社会の矛盾に問いかけるような作品って多かったんだよね。今じゃ、全然はやらなくなっちゃったけど。

帝劇(東宝)が日本ではじめての大々的なオーディションをした時、ミュージカルが好きじゃないワタシが「受けよう」と思ったのも「レ・ミゼラブル」という作品に思い入れがあったから。ガブローシュという少年役で最終までいったけど、最終的に「やっぱり子役にやってもらうことにしました。」だって。その後、小さな劇団でこの演目を経験しました。想像もしていなかった演出家との出会いに恵まれて、より深く実際に自分がその世界に身をおくことで、この作品の秘めた深い問いを直接感じることになります。だから、答えの出せない難しい問題があったとしても、自分なりの考えをイメージとして持つことができるようになりました。感覚として、「これは絶対ありえない。とか、こっちの方向にいくのが光につながっているはずだ、とか。」生きるうえでの大切なことを、演劇や、すぐれた映画作品から学んだことは間違いないのです。音楽は、向かって行きたい方向への道しるべになってくれる気がするのです。

関連ドキュメンタリー