先日ブログに書いたとおり、映画「パンドラの匣」が思いのほか面白かったので、早速図書館で借りて原作を読みました。
原作に思い入れのある作品ほど、自分なりの(自分だけの)イメージができあがるので、読者としては、映像化に対しては、「見たいような、見たくないような。」というちょっと複雑な思いを抱くものだと思うのです。こういう経験は珍しくないと思えます。
逆は?
原作を知らないで、映画を見て面白かったから、映画作品を見たあとに原作も読んでみようと思う。これも上の場合と比べるとちょっと数は減るかもしれないけど、存在しますよね。そういう場合、どんな感想をもつんだろう。作品によってさまざま、かな?
話はちょっとそれて、今TVで「わたしを離さないで」というドラマをやっていますよね。ワタシは見ていません。が、TV界もチャレンジしようとしているんだな、と思いました。ワタシはハリウッドで映画化された作品を映画館で見ています。とてもテーマの深い素晴らしい作品でした。主役の女性を演じた方が素晴らしくて。。。もしかしたら、あの役でなにか受賞しているかも。。。。。でも、肝心の、大ベストセラーになった原作は読んでいないのです。
映画「パンドラの匣」は、映画の力、というか新しい魅力をワタシに教えてくれたように思います。
つまり・・・・映画を見ないで、ワタシが小説の方だけを読んでいたとしても、「なんのこと書いているのかわからない。。。。」だった可能性がある、ということです(汗)。ワタシに太宰の面白さ(面白い、って、、広い意味での)に気づけるだけの力がなかったと思う、ということ。監督はきっと太宰ファンなのだと思うけど、映画化するにあたって、特にファンでもないワタシのような人間にも、その面白さが伝わるように咀嚼して、橋わたしのような、通訳のような役目を果たしてくれたように思うのです。
それはワタシだけでなく、若い観客たちもおおいに笑って盛り上がっていたことが証明しています。
解説に書いてあったのですが、この作品は、小説としての評価としてはあまり高くなかったようで、太宰原作と聞いても、あまりピンと来ない人も多いような感じなのです(周りの太宰好きに聞いても)。というのも、小説のベースになっているのが、太宰と交流のあった年下の友人?(太宰が才能を評価していた。)の日記をベースに書かれている、という不思議な成り立ちだからです。(この辺は、興味あるかた、調べてみてください。)
青春時代とか思春期というのは、本人はまっただ中で、濁流に飲み込まれないようにもがいてる最中のように、周りのものが見えていない時期じゃないですか。でも、小悦で表現するには、そのことを客観的に見る事ができなくてはいけない。太宰の凄さが(あとがきに)書かれていて納得したのですが、30代の太宰が、若くしてこの世を去った自分の愛読者との交流を通じて世に生み出した作品。思春期の瑞々しい感受性、感性に溢れていることに、気づくと驚きます。その一方で、たぶん太宰が独自で考えている芸術論とかが、時々作品のなかにはさまれていて、ちょっとくすっ、としたりもします。
小説の最後は
この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当たるようです。」
と、なっていますが、映画のラストは違っています。
2009年公開の作品ですが、このラストは、震災を経た現在において、ますます。。。。。
現代に蘇ったかのような「パンドラの匣」です。匣のなかには。。。。そして光は。。。。