昭和5(1930)年、10月27日、台湾の山地部族が日本人を襲い、140名を殺害、公立学校の運動会の最中であった、大人も子供も、男も女も殺害される、この事件のリーダーは、セデック社のタダオ・モーナ、6つの社の300人が参加した。
ところで140名の日本人の身体はどうなったのか、つまり、彼らのアタマである、上の写真は第2霧社事件の後のもので、おそらく、日本に協力した蛮族の要求を受け入れたのではあるまいか、彼らには首狩りの風習があった、しかし、これは、まずいだろう、政治的に利用されてしまうからだ。
だから、140名の日本人も同じ目に逢った可能性が大きい、しかし、さすがに遺族の思いがある、だが、あるいは、どこかに保管されているかもしれない。
なお、この写真はネットからのもので、何枚もが掲載されていた。
かねてから、こういう事態が起こることを恐れた台湾総督府は、将来、リーダーになる若者を日本に招待する、彼らに軍艦を見せ飛行機を見せる。
「日本は、こんなに強い国なんだ」
「・・・」
「反抗してもムダなんだよ」
ところが、これが裏目に出た、彼らは万全の準備をして蜂起、その時、皇居を見学させたのだが、皇居前の広々とした公園を見た一人が、
「どうして ここに イモをうえないのか」
彼らの主食はイモで、山間の狭い土地にイモを栽培していた、こんなに広い土地があったら、どれだけイモを植えられるか、子供や老いた母親に、お腹イッパイ、食べさせてやれる・・・
これが、貧しい彼らの本音(ほんね)だったのかもしれない。