「やんば天明泥流ミュージアム」
令和3年にオープンしたばかりの新しいミュージアム。
八ッ場ダム建設の際に発掘された物が展示されています。
(シアター以外は撮影可能でした。)
まずはなぜこの辺りが天明の浅間山噴火の際に泥流の被害に遭うことになったのか。
天明3年5月に始まった浅間山の噴火はだんだんと激しさを増し、8月4日の夜から5日朝にかけてクライマックスに。
このときの溶岩流は現在「鬼押出し園」になっています。
火砕流は森林を飲み込み、火砕流による樹形を形成。
こちらも見学できるようになっているそうです。
噴火は8月5日の朝にはおさまったそうなのですが、鬼押出しの新井沼というところで大爆発が起こり、山体崩壊。
ものすごい土石なだれとなって当時の鎌原村を飲み込んでいきます。
こちらは土石なだれなので熱くはなかったとのこと。
そしてこの土石なだれ、現在の万座・鹿沢口駅の近くで吾妻川に流れ込むんですね。
この泥流が川沿いの村々に被害を及ぼし、江戸や千葉まで流れていったというのですが、ここで一つ疑問が。
吾妻川ってそんなに水量が多い川ではないと思うんです。
で、浅間から来た土石なだれも鎌原村を飲み込んだときにはほとんど水分はなかったそうなんですよね。
泥流になって下流まで流れていくためには相当な水の量が必要だと思うのですが、その水はどこから??
8月5日の前に大雨でも降って水量が増えていたのでしょうか。
ちなみに天明泥流は伊勢崎や本庄の川沿いにあった家々も押し流したというのだからとんでもないです。
特に玉村の五料橋のところは川の合流地点だから被害がすごかったそうな。
ところで、展示室には当時の人々が使っていた様々な道具が展示されていました。
泥流が一気に家々を飲み込んだため、ほぼそのまま残っていたわけです。
展示品を見ると、意外にもけっこう裕福な生活をしていたことが分かります。
陶磁器は伊万里焼、唐津焼、瀬戸焼、美濃焼などなど・・・。
しかもこれらの陶磁器、個人の名前が焼かれる前に刻まれていたそう。
つまりオーダーメイドで作らせてたってことですよ。
すごい財力じゃないですか?
どうやら麻の生産や養蚕によって、現金収入を得ていたようですね。
街道沿いで物も行き交っていたのかもしれません。
そんなこんなでかなり楽しめた天明泥流ミュージアム。
シアタールームもあり、泥流が押し寄せてくる様子がかなりリアルに再現されています。
いろいろ勉強してからまた来たいですね。