
いつでも信仰はこの世での真剣勝負。彼女もきれい事では済まない問題を抱えていると話された。ほとんどお付き合いの無かった、親戚の方の最後を看取るようにと迫られているとのこと。そんな問題は年を取ると共に増えてゆく、こちらの力もなくなって、自分の身だけで精一杯といえる状態で、執拗に求められるその苦しみはよく分かる。
私は、小さい頃に父を亡くして、母は私を連れて里に帰っているので、顔も知らない叔父が破産をして亡くなったと、財産の相続放棄をするようにという弁護士からの分厚い手紙を受け取ったことがあった。
そして、私には痛い弁護士費用の分担金を求められたことがあった。それから数年後には、その叔父が保証をしていたというマンションの未払い分、数千万円の請求が銀行から来てびっくりしたことがあった。これはすでに相続放棄がされていることを知らせることで無事に済んだ。
けれども、そのとき私はこの世の中には理解出来ないような災難があるものだと、自分たちさえ、きちんとやっていれば良いというものではない現実を知った。
それは、神様の恵みも憐れみも、私のまったくあずかり知らぬ所まで届いてくださってこそ、今日の平安があることを知ることであった。
私は、彼女にその問題をそのまま主に祈るようにお勧めをして、負えないものは負えないけれど、祈るとそのことが出来るかも知れないと話した。負えない重荷を負わせることを主はなさらないけれど、主がその力を与えてくださるなら、どんなことでも出来ると思うから。必死で自分を守ろうとしなくても大丈夫よと・・。
私は、義理のある人の要求を言われるままに受け入れていた時がある。彼らの子どもたちは何もしなかった。パートの仕事というバリアーで武装して一度も親の看病をすることはなかった.。でも、私は彼らには何も言わず自分に出来ることをした。
また、経済的な助けが必要になったときも、「何にもしてないお前に言うのは筋違いやけど、お前にしか頼めへんねん。」と、尋ねてくる人を追い返すことはしなかった。それができたのは、私は主の備えを知っており、憐れみを受けている身として逃げられなかったからだった。
高齢化は、このような問題が終わることなく続いてゆくことになる。自分たちのこともあるけれど、身近にも「今日は無事だったけれど・・」という問題を、私たちもまだまだ引きずっている。もし、自分で自分を守ろうとするならどれほど重いことだろう。
今は、1日、1日みことばをそんな心の奥底の悩みにまで降ろして、すべてを主にお委ねするときにはじめて安息が得られる。
イエスさまは、そんな私たちに近づいてくださって、「平安があなたがたにあるように」と御手をのべてくださる。
ああ、主よ。どうぞこの身にみこころがなりますように。
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