神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。
神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。
夕があり、朝があった。第五日。(20~23)
神はすべての生き物をそれぞれの形に創造された。発達途上のものではなく、無数とも思える生き物のすべては、みこころのままに完成されていたので祝福された。創造主の全能の力に拠ることである。
そのような神の知恵と力は人には思いもよらないことなので、己の能力をもって神を計ることにより神がわからず、被造物を拝んで神に敵対するのである。
人は神の作品である天地を見ても神の完全を悟らず、事を曲げるサタンの知恵によって、御子の命をたまわるほどの愛を受け入れず罪を重ねている。
幼子の眼差しで神の作品に触れるとき、天地に在る必要の備えを、季節ごとの慰めに満ちた木々や花々に見ることができる。
生き物たちに養われる健やかな心身にあっても、神の愛に包まれる満足をいただいて喜び、限りある命を救い主イエスにお委ねする死を通って、永遠のいのちに至るのである。
それは愚かさではなく、初めに神が選ばれた幼子の心に拠ることである。
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ15:16)
人に神の愛が理解できないのは自ら出自を貶めて、救い主イエスのことばに信頼することが無いからである。
地は、人が命の喜びを味わうことができるように出来上がり、神はそれを「よしと見られた」のである。
ただ現在は、人の欲望のままにその姿が歪められ破壊されて、神が備えた完全なバランスが損なわれてしまった。限りある命に拘り、自己中心よる一時の繁栄を喜んで来た結果である。
しかし、神は御子イエスを遣わし罪をあがなって、滅びゆく世から救い出す道を備えてくださっている。
罪を悟り、御子イエスが十字架で罪をあがなってくださった事実を受け入れて、「我が命の主、我が救いの神」と礼拝して、イエスの復活による永遠のいのちをたまわる救いである。
それは、不信仰者が入る永遠の裁きに至る復活ではなく、神の愛の中で生きる永遠のいのちの復活である。造り主以外に明日の命を知る者はおらず、今は永遠を過ごす場を分ける夕であり朝であって、幼子の心でイエスのことばに「アーメン」と答える時である。
神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:2)