ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。(19)
イエスの罪はユダヤ人の王であることになる。神の約束の民はキリストを拒否し、神のご計画を死罪としたのだ。
そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください」と言った。
ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」(21~22)
ピラトが誇った権威は、唯一イエスを「ユダヤ人の王」と言い切ったことだけである。
兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。(25)
弟子たちは逃げても、マリヤたちもヨハネもイエスに留まっていた。すべてが失敗で終わったように見える時に、なを主に留まらせるものは、キリストの愛を知っていることに拠る。
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。(26~27)
「イエスが愛された弟子」とヨハネは信じていた。一人ひとりを100パーセント愛するイエスを知っていたからである。誰と比べることではない。ヨハネはその神の愛によって、人を恐れることはなかった。
イエスは愛する母を、肉の家族ではなく霊の家族に託された。それこそ永遠の関係であり、いつも共にいる関係なのである。
「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。(マタイ12:48~49)
かって肉にある母を拒否されたように見えたことがあったが、マリヤを霊に於いても母とされた。
彼らはわたしの食べ物の代わりに苦みを与え私が渇いたときには酢を飲ませた。(詩篇69:21)
乾ききった喉を通る酢は針を飲むように沁みただろう・・、それは犯罪者の飲み物である。ヒソプも酢いぶどう酒も罪を清めるためのものなら、罪の無いイエスの飲み物ではなかったが、受けて預言を完成された。
イエスは働きを始められるとき、罪の無い方が罪人と同じように洗礼を受けられた。完了されるときもこのように人として、完璧に御父に従順されたのである。それは、キリスト者への道しるべとなってくださったことなのである。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。(30)
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。(マタイ27:51)
神殿の幕が天から裂けたそのとき、神と人を隔てる壁は取り去られ、キリストの十字架の血によって罪を洗われた者は、いつでも父なる神にすべてのことを祈ることが許されるようになった。
そう、事実いま私たちのうちにおられ、みことばを近しく語り聴かせ、すべての祈りを聞いていてくださる。
十字架に付けた者は嘆くが、救いを受けた私たちは歓喜するのである。
もう、世のすべての悩みも思い患いも死への恐れも、全能の神に申し上げて平安をたまわり、新しいいのちに生きる者とされたからである。
キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(へブル9:14)