石ころ

イエスの時 ③(ヨハネの福音書7章)

 

さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。
見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。(25~26)

 

イエスのわざを見てメッセージを聞いた人たちから、イエスが命を狙われている意味が分かって来たのであろう。イエスの話されることは、宗教家たちとはまったく違っていたからである。
その人たちはみことばからキリストに気付き始めたのである。

 

しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。(27)

 

ナザレの大工の子であることを知っていることで彼らは躓いた。
私たちの知っていることにどれほどの真実があるのか。確かにイエスはナザレから出た大工の息子でもある。しかし、それは事実の一部に過ぎず、みことばや御わざの前で謙遜でなければならないのだ。

 

人は目や耳や頭などなどを用いてすべてのことを判断しており、それが世においては当然であっても、それによって神を判断することは出来ない。

被造物が造り主を判断することは不可能であり、聖霊の助けによって創造主を礼拝することによって、神を知る関係が築かれて行くのである。いのちを得る者は、神に産み出された時に幼子の心を持つが、神は何によっても判断されることはない。

 

イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。(28)

 

イエスは人となり人の不自由を纏われた。罪の結果である死から人類を救い出すためである。そうして地において神のみこころを行うためである。

人はその何処からイエスを知っているというのか、イエスの言葉は御父なる神のことばであり、真実であることを悟る者は、罪に拠る死後のさばきから救われ永遠のいのちを得る。

 

わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」
そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。(29~30)

 

イエスは十字架に追い込まれて行く言葉、神のキリストであることを語り続ける他ないのである。その事実を人が知るのは、十字架を通られた後に恵みの中で知る。イエスの命は神の計画の「時」に在り、人の計画の中ではないことがわかる。

 

群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。(31)

 

見聞きしたことに素直な反応をする人々も居たのだ。その声が一人ひとりの信仰に結び付き、キリストに留まるときに救いの実を結ぶが、その信仰の種が良い地に落ちる必要がある。

 

パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。(32)

 

しかし彼らの声は世を恐れて小声に留まり、告白されることはなかった。公に言葉にならない信仰を持ち去るのはサタンである。世の思い煩いの中で、人を恐れる大きな声にかき消されてしまうのだ。そうしていつの間にか「十字架につけろ」と叫ぶようになる。


しかし、神の勝利は此処にあり、十字架のキリストによって罪の代価が支払われ、罪の裁きによる死から救い出されて、キリストを信じる者すべての救いが完了するのである。

 

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(Ⅰヨハネ5:5)


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