ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。
群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。
しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。(11~13)
神を恐れる者は人を恐れないが、人を恐れて群衆に紛れている者が、天地創造の神を告白することはない。彼らは奇跡を見ても、イエスのパンを味わっても、イエスをキリストと証することはない。
彼らは小声でひそひそとイエスを探し、遠くから見物するだけである。しかし、彼らはイエスに在るキリストのわざを見たのであり、その事実を認めずに、神が遣わされたイエスを礼拝しないことは、神に反抗する罪なのである。
祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。
ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」(14~15)
此処で彼らがイエスに遜るなら、そのみことばによってキリストを悟ったのである。彼らの疑問は、すべての事実を真っ直ぐに受ける幼子の心があれば、解けることである。
そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。
だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。(16~17)
彼らにイエスが分からないのは、神の計画を行う方を求めず、自分たちの計画を行う神を求めているからである。
真にイエスは神のみこころを行うために、神のことばだけを語り、ご自身を語られることは無かった。
この言葉は、キリストの御足跡を行く者に恐ろしくもある。人が自分を混ぜることなく、みことばだけを語ることなど出来得ようか・・。イエスのように福音を語ることが出来ようか。
すべては神の忍耐と、キリストの執り成しの中で赦されてのことである。それゆえ拙くも福音を語り伝えようとするときに、主の赦しに在る身の感謝でいっぱいになるのだ。
自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。(18)
このことばは主の励ましであり、キリスト者は此処に立って福音を伝えることが出来る。此処に人の何かには拠らぬ平安をたまわるのである。
モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」(19~20)
人は神のキリストに「悪霊につかれている」と言い、「ベルゼブル」と言う霊の盲目は恐ろしい。
「だれがあなたを殺そうとしているのか」と言うのは、次に起こる事を知らないからであり、「十字架につけろ」と叫ぶことも、思ってもみなかったことなのだろう。
人はその場限りの流れの中で生きており、明日は何を叫んでいるか自分でも分かっていない。しかし、キリストは無知な者のために命を与え、永遠に変わることの無いいのちのことばを備えてくださった。
イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。(21)
彼らはイエスのわざをただ一時の驚きで過ぎ去らせ、御前にへりくだる時を失った。それは、キリストを礼拝する時を逃し、ひとり子イエスの命と引き換えにしてまで準備してくださった永遠のいのちを失って、滅びの刑罰を受けることになる。
モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。(22~23)
イエスは律法に忠実であると言う彼らの矛盾を暴き、その偽善を暴いて悔い改めに導かれた。彼らが此処でイエスにひれ伏して、真実なみことばを受け入れ礼拝したなら、神の初めの計画の通りにイスラエルに救いの時が訪れたのである。
しかし、そうはならないことは主に知られていたので、イエスを殺す彼らの罪を贖う十字架を負い、イエス・キリストはイスラエルに救いの道を備えてくださったのである。
うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」(24)
此処に、イエスの見た目がどのようであったかが窺える。一目で人が恐れ入る光臨もなく、貴族のような装いも無く、権威をひけらかす威圧感も無い大工の風貌であったことが・・。
人は本当に見た目に弱い。それゆえサタンは煌びやかに威厳に満ちた態度で、冠などを付けて神々しく振舞う。
イエスは歳よりも老けて見られ、この世でのイエスの冠は茨であった。弟子に命じられたものも人の目には見えない神の武器である。
腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。(エペソ6:14~17)
彼らは、イエスのことばには矛盾がないことと、神の憐みに溢れる振る舞いを見聞きしていても、人には出来ない神のわざを目の前で見ても、目に残る上辺によって「悪霊につかれている」と言う。
神が分からない者は、サタンもわからない。目に美しい様子に惹かれ、目に残る立派な造り物に惑わされて、サタンに定められている永遠の滅びに引き込まて行くのである。
聖霊はイエスによって見たこと、聴いたみことばを霊の倉に積むことを助けてくださる。主にたまわるそのエネルギーによって、永遠のいのちの言葉を伝えるためである。