さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。
彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。(1~2)
彼ら宗教者は、謙遜になって神を知ろうとはしなかった。キリストを悟るために準備してくださった奇跡を見ても、ベルゼブルによると言うほど頑なで盲目であった。彼らがけんめいになったことはイエスを騙すことであった。
ぴったりとイエスに付いて監視し、その一部始終を見聞きしたうえで、どこからこの結論が出て来るのか不思議である。滅びに引き込む肉の力とは、これほどに強固なものなのだろう。
聖なるものと汚れたものの区別を、見た目と人間的な価値観に拠るからであり、彼らに宗教は世で有利に生きる道具に過ぎなかったのだ。
それゆえ、彼らは何よりも人を恐れていた。神を恐れない者は人を恐れるようになる。人の評価がすべてだからである。民衆の上に立っているが民衆の顔色を伺って、それに自分の生き方を合わせ滅びに引き込まれて行くのである。
イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。(3)
ツァラアトはうつる皮膚病として忌み嫌われていた。イエスさまは恐れられたり嫌われたりしている人の所に、癒しと平安をもって来てくださる。弟子たちも一緒だったのは、イエスさまの平安があったのだろう。そこ入って来た女も、イエスさまの平安をもって香油を捧げたのだ。
すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。(4~5)
弟子がイエスに捧げられたことを「むだ」と言った神経に驚く。これほど怒る意味がわからない。女は自分のものを捧げただけである。彼らには何の負担もかけていないのに・・。
聖霊を受ける前の彼らには、御わざを見てもメッセージを聞いていても、真のキリストがわかってはいなかったのだ。
神への捧げものは世では消えるものである。どんなに立派な神殿もやがては崩れる。それを惜しむ心は捧げてはいない。神への捧げものは天にのみ残るものである。
ただ、危急の時には、世に居る間にも主が利息を付けて届けてくださることがある。これは後になって知る事実である。右の手のわざが左の手に知られずに、確かに天に届いていれば・・。
すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」(6~7)
今という時は過ぎ去るものであり、二度と戻っては来ない。彼らにはイエスが何時も一緒にいてくださるわけではなかった。
彼が惜しむべきはイエスと共にいる残り時間、みことばを聴く時間であった。貧しい人への施しは、自分の腹を痛めて行うものである。
「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。(8~10)
この時ユダはイエスを見限った。価値観の違いが決定的になったからである。彼には、香油の代価が香りとして消えてしまう愚かさが許せなかった。
また、イエスが死ぬなら、側にいる意味もなくなったのだ。何時も財布の金を盗んでいた(ヨハネ12:6)彼には、金が入って来ることがイエスと居る意味だったからである。
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24)