マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。(18)
マリヤはイエスが生きておられることと「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と言われた言葉を弟子たちに伝えた。
福音を伝えるには技術も能力も要らない。自分が見たこと聞いたことをそのままに伝えるだけ。今は、聖霊がすべてを備えていてくださる。
救いの喜びに溢れて、出会ったイエスのみことばを語るだけである。そう、幼子のように・・。
人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。(ルカ12:11)
公にお偉い人の前に引き出されて、証言するときでさえ心配がいらないのであれば、親しい人なら尚更に心配したり事さらに言葉を準備する必要も無い。
その人の救いは神の選びによることであり、あらゆる方法で必要が備えられ言葉を唇に備えてくださる。
家族なら言葉が不必要なことさえある。ただ聖霊に満たされて、救いの喜びに満ちて生きているだけで、ことばなるイエスが溢れ出て沁み込んで行くように、何時の間にか家族ぐるみで主を中心に生きるようになる。みことばの約束に拠ることである。
救いは聖霊の働きであり、肉の頑張りや遣り繰りには依らない。何事にも霊の働きによるか、肉の働きによるかのどちらかである。霊に導かれる行いはあるが、肉の働きに霊が臨むことはない。
家族の救いに人間的なご機嫌取りが、聖霊の働きの邪魔をしていることがある。それはみことばの約束に信頼していない結果である。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。(19~20)
彼らはイエスのお言葉の通りに待っていた。主を待つことは信仰生活で最も大切なことである。それはイエスに信頼する者なら、どんなに弱くても出来ることである。世を恐れて鍵をかけて怯えていても、復活のイエスは恐れの中にも来てくださる。
イエスは彼らにご自身を証する御手と脇腹の傷跡を示された。彼らはイエスの十字架の傷跡を見たのである。それはどれほどに復活の確信を与えたことであろう。
イエスに似た人ではないのだ。それは彼らを殉教の信仰にまで守るものであった。復活のイエスの印しは死を打ち破り、彼らに永遠のいのちを与える証である。
聖霊のバプテスマによって、罪をきよめられて新しく産まれる経験は、神の子としての確信を与えるものであり、キリストの平安を得て大胆にみこころを生きる力となる。
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(21~22)
キリストの平安は聖霊の臨在に拠る。世の状況や自分のあれこれには関りなく、時が良くても悪くても変わらない。それゆえ、みこころを行う者には聖霊の導きが絶対条件である。
だからイエスは働きの初めに、弟子たちに現れてまず聖霊を与えられたのである。
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」(23)
赦しは自他に係わらず聖霊によって可能となる。肉は決して許さないことを、神の霊に導かれる従順によって赦すのである。
霊に感情までもが従うのは、イエスに赦されている日々の安らぎと神の愛を味わっているからである。
赦しの力がどれほどのものであるかは想像もつかないことであるが、主の祈りによって、みことばに従順して赦しを祈るときに、世の状況には拠らぬ勝利を経験するのである。
十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。(24~25)
トマスが特に不信仰だったわけではなく、他の弟子たちだってイエスを見たから信じたのである。でも、このように言い立てるのは、イエスに会えなかった事が悲しくて悔しくてたまらないからであろう。イエスを愛している者はみな同じように思うだろう。
八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。(26)
イエスがトマスを忘れるはずはない。イエスが私たちの誰一人として忘れるはずはない。命を支払ってあがなってくださった者なのだ。
よみがえりのイエスは繰り返し「平安があるように」と命じられた。トマスにも私たちにも・・。
キリストの平安に安息していなければ人は何も出来ない。人を恐れ、自分のあれこれを恐れ、世の評判を気にしている者に、かって人が見たことも聞いたことも無い永遠をどうして語ることが出来るだろう。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」(27~28)
トマスは嬉しかっただろうなぁ・・。イエスの叱責が甘く感じる時がある。彼のためにわざわざ来て御体に触れよと近づいて、信仰を確立してくださるのである。まことにそれは「私の主、私の神」の経験である。
形は色々であっても皆このような弱さの中で、イエスとのとても個人的な関係をたまわっている。
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。(29~30)
今、イエスを見てはいないけれど信じている。出会ったことはないけれど知っている。霊の深い所で寝ても覚めても一緒にいて、良いことも足りないことも、愚かさも失敗もすべて見られていて、何一つ隠し得ない親しいお方である。
人の心は自分自身の真実さえわからないことがあるが、主は確かにすべてを知っておられる。その事実に安らぎを覚えるのは、神が私たちのいのちの造り主であり、イエスの命によって罪の滅びから買い取られて、神の子とされたことを知っているからである。