ギブオンの人々はヨシュアのところ、ギルガルの陣営に人を遣わして言った。「しもべどもから手を引かないで、急いで私たちのところに上って来て、私たちを救い、助けてください。山地に住むアモリ人の王たちがみな、私たちに向かって集まっているのです。」
ヨシュアはすべての戦う民たちとすべての勇士たちとともに、ギルガルから上って行った。(6~7)
ヨシュアは躊躇せずに助けに出て行った。神がギブオンの味方となられたからである。
神が味方か、逆らって神を敵とするかは、人が選択したことであった。ヨシュアの厳しい聖絶戦の前に、ギブオンが出て来ることは非常に大切な教えである。
主の御わざを聞いていながら、神の民に立ち向かって来ることは、ギブオンの真逆の行為であり、その傲慢によって自ら聖絶の者となったのである。
ラハブも家族ともども主の民の中に身を避けて、聖書にその名が記されるほどに生きた。神を悟る者はいのちを得て生きるが、逆らって罪に留まる者は永遠の滅びに堕ちる。それは昔も今も同じである。
主はヨシュアに告げられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。あなたの前に立ちはだかる者は彼らの中に一人としていない。」(8)
最も重い罪は創造主なる神に逆らうことである。被造物が創造主の目的に逆らって立ち向かい、その傲慢によって創造主を蔑ろにするとき、神はご自分を証するために戦われる。
ヨシュアたちは従順によって神の力を経験するのである。その勝利の噂は遜るべき力ある神を世に知らせるのである。
神とは人間が作った実体のない神々ではないことを知らせ、偶像に頼る者たちに、それらは命を消耗させるものであると知らせる。主を信じるために残されている時間はわずかだからである。
自分の作者を無視して、自他を頼りにして生きることも偶像礼拝の罪である。罪のないキリスト以外に人のいのちを救うものは無いのだ。
彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。
口があっても語れず目があっても見えない。
耳があっても聞こえず鼻があっても嗅げない。
手があってもさわれず足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。
これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ。(詩篇115:4~8)
ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。
主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ、アヤロンの谷で。」(9~12)
ヨシュアは主に語り、民の見ている前で祈り、敵を殲滅するための時間が与えられることを願った。彼はその願いを主が聞いてくださることを知っていた。誰も願ったことがない祈りは主が彼と共にいてくださることを証した。
後で「祈っていました。」ということは簡単であるが、ヨシュアが民の目の前でみこころを行うための必要を祈るとき、神はその願いを聞き入れてその信頼関係を証しされた。
民がその敵に復讐するまで、太陽は動かず、月はとどまった。これは「ヤシャルの書」に確かに記されている。太陽は天の中間にとどまって、まる一日ほど、急いで沈むことはなかった。
主が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。(13~14)
みこころに叶った願いは主を喜ばせ、神を侮る者に復讐する願いは聞き入れられる。主がイスラエルのために戦われたのだ。ヨシュアは主の聖なる道具となり神に立ち向う敵をさばく時、それが神のわざであるのかヨシュアの働きであるのかわからないほどに、主と一つであることはなんという光栄であろう。
「このような日は後にも先にもなかった」とある。そう、人の願いによって二度と太陽と月を天空に止めおかれることは見ない。それは良いことである。このように神に打たれなければならない者を見たくないからである。
天地を創造された神には、天地のすべてをコントロールすることが可能である。被造物である人が小さな脳みそで主を知り尽くすことは出来ない。
賢い人が集まり、あらん限りの知恵を働かせて聖書の真偽を調べることも、これらの王がヨシュアたちに立ち向かって来た愚かさと似ている。ギブオンが聖絶を免れて生きているのは、疑わずに自らの業を捨てて主を信じたからである。
ギブオンがヨシュアに救いを求めたとき彼らを助けることがみこころである。イスラエルの裾を固くつかんで主を求める者は、主の憐みにあって生きるのだ。
「私たちもあなたがたと一緒に行きたい。
神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ」(ゼカリヤ8:22)
主を試みる者とはならず謙って救いを求めるとき、神は彼らの敵と戦ってくださる。働く者に主の御わざを経験させて、いよいよ主に信頼し、御名があがめられるように大胆に祈り、すべての必要を願い求めて主を証するようになるのだ。