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私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)
この歳まで色々な問題に出会った。それは何時も突然にやってくるやっかい事であって、私はその問題から逃げられる立場でもあった。つまり言い訳も逃げ道もあった。理屈を言って逃げようと思うならそれもあり・・、いつも少々理不尽な要求であったから。
最近では主人が召されてひとり暮らしになって間もなく、義妹から電話かあって「おばあさんの転院が迫っていて、姉さんの近くの病院で受け入れてくれることがわかったので保証人をしてくれませんか。」ということだった。私は「分かった。いいよ。」と答えた。
それが、「おばあさんの今後を引き受けろ」ということだと思ったけれど、即座に腹をくくってokした。
「車もないのにどうするのか・・」なんて悩みはしない。実に無責任みたいだけれど、イエスさまに在っての事は自分で責任を取ることではなく、ただその時に出来る事をするだけだと思っている。
必要のすべてはイエスさまが備えてくださって、私に持ち込まれたのだと思って居るから。
しかし、実際にはおばあさんの病状悪化で転院はなくなり、その後娘達に見守られて88歳で静かに亡くなった。
私は試されただけ・・。いや、信仰の証しのチャンスが与えられたのだと思っている。
クリスチャンになって30年以上、親戚の頼まれ事は黙って引き受けてきた。「あなたの子供たちに頼みなさい。」とも、「なぜ私が・・」とも言わなかったのは、その問題はイエスさまと私の問題であると思ったからであった。
子供に一番お金の掛かるときにも、往復2000円かけて遠くの病院の付き添いにも通った。彼らの子供が直ぐ近くに住んでいても「嫁は働いているから来られない」という理由に私は何も言わなかった。
決して豊かではない生活であっても、「こんなことお前に頼むことは筋違いやけど・・」と言いつつ、度々お金を借りに来られた時も可哀想に思えて嫌な顔はしなかった。一度だけ少々値切ったことがあったけれど・・アハハ・・。
病院で検査や治療を嫌って主人は取り乱し人格が変わってしまった。それはせん妄という状態らしいけれど、その様子を見たとき何時何が起こるかわからない主人であっても、即座に連れて帰ろうと決断できたのはイエスさまを知って居たからである。いや、イエスさまに知られているからであった。
事実、その時医師に言われたような「お母さんが倒れますよ」なんて事は何も無く、主人と穏やかな20日間を過ごすことが出来た。
主は、毎日通ってくださるお医者さんと訪問看護師さんを備えてくださった。主人は苦しむこともなく、最期まで一々「ありがとう。ありがとう」と喜んでくれて、とても味わい深い静かな時間を共に過ごすことができて心から感謝であった。
御旨に叶うことの責任は主が取ってくださる。その行いは主から出ているものだから、例え無謀に見えることであっても無理はなく何の歪みも問題も残らず、むしろ満足と感謝が残ることになる。
「平安があなたがたにあるように。」というみことばは嵐の中ででも実現する。それは、主はご真実だからである。