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私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。(ガラテヤ2:21)新改訳
わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。(ガラテヤ5:9)
神の恵みの中に律法が忍び込むとき、御霊と肉の対立によって人は不自由になってしまう。共に主を喜ぶことも互いを愛する自由も失って行くのは、律法による束縛を受けているからである。
律法はどう行っても人の頑張りであり、律法によって救いを完成させるには「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」を完全に行わなければならず、それは人には出来ないことでその結果は滅びであると書かれている。
律法を完成させるのはキリストだけである。それ故キリストに救いを求める信仰によって、律法の束縛から解放され、私たちは御霊による愛によって働くのである。
律法はイエス・キリストの救いを求めるための養育係である。もし、いつまでも此処に留まるならキリストの十字架は無意味となる。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:17)
キリスト者に不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術は無いにしても、
敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 ねたみなどは肉には身近なものである。
それは御霊に逆らうものであり、見張っていないとパン種のように広がって福音を破壊してしまうのである。律法には肉の働きが付きまとうからであり、それは良い行いを求めていても欲望に勝つことはできないからである。
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)
新しく創造された御霊による福音は、弱さを覆う愛、互いを喜ぶ神の心、揺るがぬ平安、赦しによる寛容、助ける親切、心遣う善意、変わることのない誠実であり、その関係は常にキリストの柔和と自制の利いたものである。
これらのすべては神からの賜り物であり、そこには神の国の前味が満ちている。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)
私たちの完全は主から来る。此処に律法が入り込む余地はなく、私たちの見張るべきは交わりに律法を持ち込ませないことである。パウロの苦しみも此処にある。
私たちもパウロのように、教会や家族、友人のためにその役割を負っているのである。
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ4:19)
しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。(Ⅰペテロ5:10)新共同訳