
ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。
百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。(ルカ7:2~3)
百人隊長は初め「しもべを助けに来てください」と願っていたが、イエスさまが近付かれる間に、「お言葉をいただかせてください」と願いは変わって行った。
百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。(ルカ7:6.7)
イエスさまを待っている間思い巡らせている心に導かれた信仰は、彼の指示に従う部下の経験を通して、イエスさまにある神の権威を悟る信仰を育てて行ったのだろう。
イエスさまに祈って、結果を待つ間はとてもとても重要な時間である。それは交わりの時間であり、みことばに信頼して安息に入り、賛美に至るまでの甘いストーリィがある。それは神と共に生きたこととなり、愛された証として心に刻まれて行く。また結果に拠らない平安を知るプロセスとなる。
だから、何時もいつも同じ事を繰り返して祈ることはあり得ない。それは人の一方的な言葉のようで空を打つような感覚があるのは、みことばの返信を待たずしゃべり続けているように思うからだ。
祈りの途中で願いが変化して行く事がある。本当に必要なのか・・と問われることがあり、すでに得て「時を待て」と知ることがあり、時には取り去られて忘れてしまうこともあるが、これはとても大きな守りである。問題から解かれることだから・・。
数年も数十年も前の日記から、及びもつかない祝福の内に成就していることを知って、感謝と共に主を恐れることも沢山ある。
祈りはイエスさまに心の内を打ち明けること。思い煩いや、嘆きや、苛立ちも・・、また後悔や、失敗の執り成しなどなど・・でも、主に信頼が増すうちに、自分のことに関する祈りは減って行く。それは、祈る先に備えられていることを経験するようになるから・・。
イエスさまは、一人息子を亡くしたやもめをご覧になった時、かわいそうに思ってよみがえらせなさった。それは、ただ、かわいそうに思ってしてくださったことである。
イエスさまの無条件の愛を経験して行く中で、私の中にイエスさまを愛する信仰が芽生えたのだと思う。主に愛され守られていることを沢山経験して、偶像となるものは要らないと気付かされ、イエスさまが一番大切な方になって行ったのだ。
百人隊長をほめたイエスさまは、いつだって「あなたの信仰」と評価されている。信仰を導き育ててほめてくださるイエスさまは、人を祝福することを喜んでいてくださるお方なのだろう。