
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子(イエス)が栄光を受けるその時が来ました。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。(ヨハネ12:23~25)
神の御子イエス・キリストの栄光とは、最も重い罪人に対する刑である十字架で、神の選びの民の意志によって処刑されることであった。
自分の命を憎むとは自分由来のもろもろに対してのこと、名声や計画や財産などなど・・、それらはもっとも死を苦しめるものである。
それらをに執着する者が、キリストを見いだすことは大変困難である。
私たちの命は絶えず死に向かっており、避けるためのあらゆる努力をしようとも、それは単に時間稼ぎでしかなく、いや、最近はそのために死の形が悲惨になってしまっているように見える。
しかし、神様がアダムとエバをお造りになったとき、死は神様のご計画ではなかったのだ。彼らは神のように生きる者として造られた。
だから死は自然なことではなく、神様の警告に背いた結果なのである。
そのように、人の死は罰として入ってきたものであるから、私たちには心を引き裂く痛みがあるのだ。
秋には木の葉が落ちるように、穏やかに過ぎ去らせることができないのである。
イエスさまの十字架刑はその人間の罪をあがなうものである。
アダム由来の罪を、処女から生まれて原罪に縛られないイエスさまが、身代わりに処刑されてくださったことで、私たちの刑はもう執行されたのである。死刑より重い罰はないから、私たちは神の前にもう無罪なのである。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15:55)
イエス・キリストによって死は罰ではなくなり、永遠のいのちを賜った天へのお引っ越しとなったのである。
ただ、そのことを知って居ても、私は主人の骨を見たとき激しい動揺を覚えてうろたえてしまった。それは目にしたくないものであった。
この世では、まだ体は罪の元に縛られていることを思い知らされ、その痛みを処理できなかったのだ。
しかし、キリストの十字架に救いを求める者には、朽ちることのない栄光のからだの望みがある事を知って居るから、決して嘆き続けることはない。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3:21)
神が私たちに死を見せられるのは、その死が一粒の麦となって残された者にいのちについて深く考えさせて、キリスト信仰による真のいのちを得させるためである。