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イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」(マルコ9:1)
そうしてヨハネは見た。
その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。(黙示録4:1)
弟子たちが逃げた十字架の側にヨハネは居たと書いてある。そうして彼は、主の母を母とする栄誉を得た。
その栄誉とは、神のご計画のために選ばれたことである。
母の胎で主に造られ、生まれる前から命の書に記された者が、主のご計画のとおりに地上での命を用いることができるなら、それはどれほど価値あることだろう。どれほどの光栄であろう・・。キリスト者はこのために選ばれたのである。
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。(ヨハネ19:26~27)
ヨハネは「イエスの愛された弟子」と高らかに自称して、イエスさまの愛に安息していた。そんなヨハネに主は黙示録を委ねられたのだ。愛されているという確信によって人は安らぎ力を得る。愛は恐れない故にヨハネは最後まで十字架の側にとどまることが出来たのだ。
神の愛が平等であったとしても、イエス・キリストに「私が」愛されているという確信の無い者は、「あなたは恐ろしい方」と賜った愛を埋めてしまうのである。
神から人が賜っている最高のタラントは愛である。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。(Ⅰヨハネ4:16)
愛を追い求めなさい。(Ⅰコリント14:1)
私たちが追い求めるのは愛なる主である。
人のいのちのために必要なことはひとつだけ。それはどれほどイエスさまに愛されているかを知ることである。いかなる時にもそれを知っている者は滅びない。どうか、このことだけは忘れないで!と切に願う。
そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(ヨハネ11:3)
マルタとマリヤは兄弟ラザロが病に罹ったとき、イエスさまにこのように願って言った。私たちも互いに「イエスさまの愛しておられる○○さん」と祈ることができる。
私たちは彼ら以上にイエスさまの愛を知って居る者、十字架でどれほどの愛の代償が支払われたかを知って居るのだから・・。
言葉にして主の愛の確認をすることは、新たに主を味わうことである。