石ころ

新エルサレム②(黙示録21章)

 

しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。(8)

 

これらの罪を一つも犯さなかった人間は居ないだろう。
第二の死の「火と硫黄との燃える池」のさばきを免れる者は、一人残らずキリストの御前にひれ伏して、十字架の血のあがないを受けた者であり、御恵みによって謙遜になり「我が主、我が神」と、唯一真の神である創造主を礼拝したことによるのだ。違いは、ただそれだけである。

 

「臆病者」が一番に上げられているのは、聖書には「恐れるな」という言葉だけでも40回以上書かれてあり、「恐れてはいけない」なども繰り返し書かれている。
恐れは神に信頼していない現れであり、人を恐れる時は神のみこころを行うことはできず、それは決定的な不信仰に至るからである。

 

また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。(9~10)

 

2節と重なるが、あらゆる表現をもって何度でも、繰り返し知らせたいことなのである。新エルサレムがキリストの花嫁と表現されているのは、それは真にキリストに相応しく完璧であって、花婿キリストのお喜びなのだと思う。

 

都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。
都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。(11~14)

 

神の選びによるイスラエルも、キリストの使徒たちに在る者も、みな同じ新エルサレムの材料であり、ひとりのキリストの花嫁として完成されてあるのだ。彼らの命の捧げものは刻まれて永遠の記念となる。

 

また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。(15~17)

 

その広さはおよそ青森から鹿児島以上の距離とあった、すべての高さと幅が純金の四角い都、そう、純金の天なんて想像できようか!この小さな脳みそには想像のしようもないことであるが、そのままに信じた者の永遠の住まいなのだ。

 

本当に、十字架を通してたまわったみことばは、信じない者には愚かだろうと思う・・。みことばは聖霊に拠らないと受け入れることができず、幼子のように聞いて「アーメン」と受ける時その通りに成るのだ。
必ずこの輝く都に住む時が来る。キリスト者は此処から目を離さずに生きることで、世のすべての苦難に勝利しているのである。

 

イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。(マタイ11:25)

 

その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。(18~21)

 

地上で太陽の恵み、月の恵みを喜びほめたたえるのは、神の栄光の現れを、その光の中に垣間見ているからであろう。
純金や宝石はこの都のために存在しているのである。その欠片を今地上で見て、私たちは感嘆するのであるが、それはキリストの花嫁である新エルサレムを飾るためのものである。

 

それにしても・・と、読んでいて少し笑ってしまったのは、ヨハネは良くこれほどの宝石の名を知っていたものだと・・。
地上でのヨハネにはおよそ無縁であったと思うから・・。しかし、主の御用をするときは、知らないことは直接教えてくださることも知っているが・・。

 

私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(22~23)

 

神の栄光で輝き夜のない世界には影もないだろう。それは影を持つ光ではないからである。そこに住む神の子らも、神と同じ透き通った光の中に居て、なんら後ろめたさの影をも持たず、永遠の安息に生きるのだ。聖さに渇いて来た者にとっては、これこそが最上の喜びである。

 

諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。(24~27)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事