日が迫り、問題が差し迫ってきても一向に動きのない主人に、今までとは違う解決を主が私に導いておられると感じた。今までは、問題を主人に完全に委ねると決めると、それは主人によって自然に動いて行った。私は黙っているだけで良かったけれど、今回は手放すだけではなく、よく話し合いつつ進めることが求められていた。放っておいてはいけないと・・。
でも、その方が難しい・・。問題を真っ正面から見て、主人の願いを大切に、リスクも承知の上で、みことば第一、イエスさまに仕えるように主人に仕えつつ、問題に介入して事を進めるとは・・。その時、私は自分を治めなければならない。損得ではなく、賢さでもなく、この世のものではない価値によってこの世のことを処理するなんて・・。
それらの問題のど真ん中で思い知らされたのは、本当に私は肉の者で、自分の中にあれこれと言い張りたいものを握っているということ。それは非常に執拗だということ。
でも、主はみことばによって導いてくださった。主は、親切で忍耐強く、私を待ってくださり、何度でも何度でも教えてくださるお方。
キリスト者に起こる問題は何のためなのか、あれこれの困難は何のためにあるのか・・それは主と交わるためにあるのだと。その度にみことばを頂いて、主を新しく知るためにあるのだと。もっと深く、もっと新鮮に・・聖書は誰にでも同じだけれど、その学びはその時私だけに準備された個人授業。なんという贅沢だろう!
問題は結局なんの損害を被ることもなく、数年来のイライラから解放されるという結果となった。
でも、終わってみればそんなことが嬉しいのではなかった。主に新しくお出会いしたことが何よりの喜びであり、主人に対して穏やかに話し合うことができたことに私の勝利がある。問題に対して、イエスさまが主人に平安を与えていてくださり、主人もイエスさまに終始信頼をしていた様子が、今、私の心をほっかりと暖めている。

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:14~15)