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神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト3:5)
すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(ヨシュア記5:15)
主は、モーセにもヨシュアにも靴を脱ぐように求められた。彼らがこれから歩む神のわざを前にして、その聖なる働きのためであった。
「昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。」(ルツ記4:7)
油菜さんとお話ししているとき、この箇所を教えてくださった。それで、みことばから確認することが出来た「権利の放棄」
主の働きのためには権利の放棄を求められる、完全な従順を求めておられる。その時モーセは多くの言葉を語っているが、それに比べてヨシュアは「そのようにした」と、一言で書かれている。
ヨシュアはモーセと共に居て、神様のわざを多く経験している。モーセにはそのような経験はなかった。主に従順するには明らかにヨシュアのほうが有利だ。
クリスチャンホームに育って、主の恵みを多く経験している事はとても幸いなことなのだ。
「ヨシュアはそのようにした」というその行いは、モーセを見てもわかるように非常に難しい事である。
自分の権利、自身の命を守る計画、世にあって身を守ってきた知識を主の前に捨てて、みことばに従って生きるという事がどれほど難しいことか・・、実際にみことばを生きようと願った者なら知っている。
ヨシュアが靴を脱ぎ、まったく主のお言葉の通りに聞き従うことによって、エリコの城門を崩すことが成るのである。そのとき、少しでも人の判断や賢さが入り込んでいたら絶対に不可能であった。すべてはいかに主に従順したか・・それだけなのだから。
その困難さを思っているとき、イエス様が弟子の足を洗ってくださったことを思いだした。
権利にしがみつく肉の力、惜しむ命、饒舌な己の賢さ・・それらとの止む事のない格闘の中で、罪を脱ぎ捨てる事ができない苦しみの中で、イエス様がすでに洗ってくださったことを思いだした。
出来ないから、出来ない事だから・・イエス様は備えてくださった脱出の道。
此処にすべてを下ろして安息せよと備えられていた救い。
互いに足を洗い合うことを求められているキリスト者。そう、私たちは互いにそれが困難である事を知って居る。だから、忍耐をもって覆う愛をイエス様に頂いて、共に完成させてくださる事を主に祈り求めよう。