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私は昔からテレビを見るよりもpcでゲームをしている時間の方が多い。言い訳をすると主人にテレビは独占されていたから・・。
先日、ゲームにも飽きてちょこっと見たテレビで林先生の深い言葉に出会った。
算数の授業のことを話しておられたのだけれど、「教師の意図はわかるが、1.0という答えが間違だとは言えない」という言葉に続いて、
「正解はゴールではなく出発であるべき」に感動したのだ。
次男には小学生の間は私が教えていた。彼は算数が好きだったので「式は一つじゃないね」なんて・・試行錯誤を楽しみつつ解かせたりしていたけれど、彼は学校でもその遊びをしたものだからテストであっさり×がつけらた。
それからは算数で遊ぶことは止めた。そして私はやる気を失った。面白くもな~んともないものになってしまったから・・。
調べ物のついでに昔の日記を読むとき、書き込まれていたみことばの理解が、今とあまり変わってはいなくて「な~んだ、昔から分かっていたのか・・」と、それはなぜかちょっとがっかりしたことがある。
けれども、それは決して同じではないことに気づいた。
「わかった言葉」と「体験した言葉」は違う。また、聖書は尚更に「知り続ける言葉」
みことばのご真実を経験する度に「生ける神の言葉」に、ひれ伏すようにして礼拝して来たのだ。
そこには沢山の主のお憐れみや恵みがあり、心配してくださっている主の備えに何度も感謝し感動して、その度に新しく主に出会って来た。
生きているものは変化し続ける。死ぬまで日々に新しく主を知り続ける。変化していないならそれは造花のようなもので、いのちを持ってはいないのだ。
だから、「正解!分かった!」は新しい出発であると思った。
だから生きることにはゲームのように飽きることはないのだろう。