イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」(37~38)
闇が光に打ち勝たないように、人の不信仰によって神の計画が損なわれることはなく、闇の行いの中に十字架だけが罪を駆逐して、永遠の救いの輝きを成就して行く。肉は十字架を避けるが霊はイエスの御わざの十字架に安らう。
キリストを知ろうとする者を惑わす疑惑にも、聖霊の助けが備えられて在る。初めに神が選び・・そう、救いはただ主の憐みに拠ることである。誰も自分の知力に拠ってキリストを知ることはない。
イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。
「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」(39~40)
不信仰はイエスのわざを悟る目を暗くして、善悪知識の木の実を食べた賢さは創造主を否定する.。その心は己の賢さに留まる傲慢によって、いのちの作者を否定する。
その心に助け主なる聖霊を迎える余地が無いので、神も彼らの賢さに任され彼らは自由である。
イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。(41)
イザヤはイエスの栄光にある神の威光を見ていた。聖霊の臨在にあるキリスト者は猶更、開かれた霊の目に拠って永遠を見て生きることが出来る。
その目の焦点を合わせた方向に人生は開かれて行き、イエスのことばに焦点を合わせる日々は、世に生きる今も永遠を生きている。
しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。
彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。(42~43)
人の栄誉に心を奪われるとき必ずみことばは脇に押しやられる。人の評判に一喜一憂しながら、自分の命を守るうちに滅びの死がやって来るが、如何なる評判も死から命を救うものはなく、その先に待って居るの、はキリストに贖われなかった罪を罰する神のさばきである。
イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。
また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。(44~45)
イエスと父なる神はひとつである。イエスの御わざによって創造主を知る者は、そこで生ける神をあがめて喜ぶことが出来る。今も生きて働く創造主のわざをすべての命の中に見ることが出来る。
また日々の些細な備えや、癒やし、恵みもあり、危機にはみことばに信頼して家族も自分自身をも主に委ねて従った事が、何年も何十年も後にみことばの通りに成就していることに気付いて、感謝に溢れてひれ伏すことがある。
それは自分自身に力が無くて、みことばに身を避けた結果であるが神の力は「弱さのうちに完全に現れる」ゆえである。
わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(46)
イエス・キリストは、神が遣わされた死からの脱出の道である。イエスを通してのみイスラエル人も異邦人も救われる。
他に永遠の責め苦である死から逃れる道が無いのは、罪の無い人はいないからである。罪の贖い主イエス・キリストが十字架で死に、墓からよみがえられたことが証なのである。
だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。(47)
イエスがさばくのではなく、イエスに来ないことによって自ら滅びを選択するのである。イエスは全ての人のために死なれたのだから。
わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。(48)
「初めに神が選び」とあるが、誰も「私は神に選ばれなかった」とは言えない。理屈を言うその口で、イエスに不信仰の罪を告白して赦しを乞うなら救われるからである。
神が備えたひとり子イエスによる赦しの十字架を拒んで、罪にまみれたまま死ぬ者に神のさばきが待ち受けている。
誰も自分の命の終わりの日を知らず救いの時は今である。そう、今イエスの御名を呼ぶことである。
救われるためのすべての必要を御子に負わせた、創造主なる神に今祈るなら、イエスの十字架が救いの実を結ぶのである。そのとき天には喜びが沸き起こる、そのひとりのために。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。(ルカ15:7)
悔い改める必要のない人とは、悔い改めるチャンスを得ない人であり、神に背く罪に気づくことなく滅びることである。事実、救われるのは百人中一人なのかもしれない・・。
わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。
わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」(49~50)
「父の命令が永遠のいのち」とある。人類の罪をあがなって永遠のいのちの道を備えよと御父が命じられ、イエスの従順によって十字架で救いを完成してくださった。
その福音を聖霊の導きによって弟子に語り継がせて、今も世界中でキリストの永遠のいのちを賜っている。すべては、人の造り主である神の愛に拠ることである。
みこころのすべてを行い、救いのすべての必要を満たしてくださったイエスを、神はどれほど愛しておられるであろう。
そのイエス・キリストによってキリスト者は神には罪の無い者と認められ、神の子とされたのである。
それは死後のことではなく、イエスの十字架による罪のあがないを自分の罪のためと信じて、イエス・キリストの十字架の御わざに感謝した瞬間に、罪に滅ぶべき命は救われるのである。なせならイエスは救いのすべての条件を十字架で完了してくださったからである。
神の愛を体験すると人はイエスのことばが親しくなり、命を掛けて愛された愛に浸されると満足して、聖霊の助けの中で神に好まれる聖さを求めるようになる。
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(1テサロニケ5:23~24)