石ころ

光りのあるうちに(ヨハネの福音書12章)

 

て、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。
この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。(20~21)

 

それは、神のご計画によって死ぬべき体を纏って地に下られた、イエスの最後の時が来た知らせであった。イエスはこの時をどれほどに恐れておられたことであろう。

それはイエスが罪を知らないお方であり、イエスを最も恐れさせたものは負うべき人の罪であって、経験したことのない罪の恐怖である。罪を負えばきよい神を父とは呼べず、それまでどんな時も一つであられた関係が断絶される恐怖である。

 

ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。
すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。(22~23)

 

彼らはイエスに時を知らせる使者であった。イエスの栄光は茨の冠、歓呼の声は「十字架につけろ」となり、処刑人の肉を裂く鞭。救いの君を売り渡す弟子。それらが待つイエスの時は近づいていた。

 

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。(24~25)

 

その一粒の麦とは誰のことでもなく唯一、神のひとり子イエスである。天地を創造された神が、創造されたご自分のもののために死なれて、たまわった人類のいのちである。

罪の結果である死を滅ぼすことが出来るのは、聖なるイエスの命のみである。

 

イエスは完全に聖であり義である方ゆえに、罪人の代わりに死ぬことが出来るのである。罪ある人間が愛のゆえに身代わりに死んでも、その死は自分の罪の結果に過ぎないのだ。

 

イエスの十字架は、キリストを信じる者をすべてを罪から解放して神の子とする。それは、処刑されて墓に入れられ、三日目に墓からよみがえるイエスのうちに在ってよみがえるいのちである。

 

もう罪の代価は支払われており、罪をあがなわれた者を共によみがえらせて、永遠の滅びである死から救い出され、永遠の新天新地に入れられて神の栄光のうちに生きる者となるのである。この時主はご自分の作品を永久に取り戻され、救われた者はみな神の栄光をほめたたえ続ける。

 

そのいのちの救いを、人は何を持ってしても買い取ることの出来ないゆえに、ただイエス・キリストの信仰に拠る驚くべき恵みなのである。

 

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」(26)

 

イエスについて行く人生は「わたしの荷は負いやすい」と言われた人生であり、滅びゆく世に振り回されることなく、日々御声を聞きながらいのちの道を一歩ずつ歩む人生である。神の愛のことばを、共に歩いてくださっている聖霊によって聴き続ける人生である。

 

キリストの十字架は、アダムに死が入ったときからの神の計画である。すべての人のいのちは母の胎で神に組み立てらた、神のかたちの霊と魂を持つ命だからである。
しかし人は罪によって神を侮り、自分の賢さによって父なる神に反抗して偶像を作りキリストの愛を否むのである。

 

「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」(27~28)

 

死を打ち破ったラザロのよみがえりは、イエスに拠って現わされた神の栄光であり、再び、キリストは十字架の死を通って墓からよみがえり、御父の栄光を現される。

 

そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。
イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。(29~30)

 

彼らが御父の御声を聴いたことは何という光栄なことであろう。しかし神のみことばを聴き取れる人は、聖い耳のキリストだけであったが、今、私たちのうちに居られる聖霊なる神によって、みことばは解き明かされ導きをたまわっている。

 

人類の歴史に記されているイエス・キリストの十字架は、罪の無いキリストによるあがないの死と、三日目に墓からよみがえって500人の弟子たちの目の前で昇天された事実を記して、今、生きている人々をキリストの十字架の救いに引き寄せるのである。

 

滅びの死から永遠のいのちの救いに引き寄せるのである。十字架の下で自分の罪を悟った者は救いを求め、キリストによってあがなわれた者は、罪の無い者、義なる者とされて、永遠の神の御元に生きるいのちとなる。罪を知る前のアダムやエバのように・・

 

「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。
わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」
これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。(31~33)

 

此処にサタンがアダムを通して人類に持ち込んだ死は敗北した。イエスの十字架は死に対する勝利であり、永遠のいのちなる神の栄光を現し、命のある間にキリストのあがないを信じる者は、キリストによる恵みのいのちをたまわる。

 

そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」(34)

 

死のない神が、死ぬべき人の体を纏って地に下るイエス・キリストの十字架によらなければ、誰も救われない。

義なる聖い神が罪人を受け入れることは出来ないからである。それは罪の大小ではなく汚れのことであり、罪の清算をせずに神を見る者はその罪によって滅ぶのである。

神は聖なる方であり義なる方ゆえに、罪を見過ごすことが出来ないのである。それゆえ、ひとり子の神を地に下されたのである。罪人となった人類を赦すためには、御子の死によって罪の清算しなければならないのである。

 

キリストのあがないは完全であり、すべての罪の代価に遙かに勝るキリストの完全な聖さによって、そのキリストを信じた者のすべての罪は清算された。彼らの罪の借用証はすべて十字架に釘付けられて神の記憶には無く、きよい神の子として神の国に迎えられられるのである。

 

そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。
自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。(35~36)

 

光りの在る間に、生きている間にキリストへの信仰を告白した者は、罪をあがなわれた深い平安のうちに、健やかな時も病んだときも永遠の望みに満ちて体の死を経て永遠まで生きる。

此処にキリストの御わざ以外のもの、人の行いや世の価値観や賢い理屈を持ち込むなら、キリストが十字架で完成した罪と死への勝利を貶め、自らを滅びの死に堕とすことになる。

 

また、すべての人のために祈り執り成すことは出来ても、その人の信仰を代わって負い、天に連れて行くことは出来ない。信仰はみな自分で選び取るものであり、それは神とその人のプライベートな事柄であって、キリスト以外には神と人の間に立ち入ることは許されないのである。

 

ヨブは神と息子たちの間に立ち入ろうとして彼らを死なせた。信仰者は愛する者を主に信頼して捧げなけれならない。彼らは聖霊の助けの中でひとり御前に立つのである。私たちがそうであったように主は忍耐を持って育てて下さる。

御子をたまわったほどの神の愛に勝るものはなく、彼らにある神の良きご計画を私たちは知らないからである。

 

女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。(イザヤ49:15)


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