みことばを導かれるままに綴っていて、その方向性に怯むことがある。誰かを否定しているように感じることがある時・・、それでも立ち止まらずに進まなければ、自分の感覚を混ぜ込むと、迷宮に迷い込むことになるのだ。
そもそも空っぽの器であることによって、ことばを満たされるのであり、満たされたことばをそのままに流し出すことによって、明日聴くことができるから・・。
子供のおつかいは、子どもが判断を差し挟むことではなく、聞いたままを行うことで完成する。狭い視野で判断を差し挟む時、父の計画を成し遂げることはないだろう。
ペテロが、神のことを思わず人のことを思って間違ったとき、「下がれサタン」というイエスさまの叱責は、1ミリもペテロを拒絶してはおらず、彼に働くサタンを追い払われたのであり、これから進み行く道を導かれたのであった。
どのような厳しいみことばも、イエスさまの十字架の愛に裏打ちされてあり、主に信頼する者に甘い。
人は誰でも間違いを犯す、それは、ペテロほど主に親密に居ても変わらない。
みこころを行うときには誘惑や惑わしもあり、自身の肉からの言葉も尽きない。
しかし、イエスさまは一人ひとりを良くご存じあり、予めみことばによって備えてくださるのは、私たちが孤児ではないからである。
聖霊に導かれるままに自分の役割を果たせばいい。自他がどのように感じようと、すべてのみことばは、キリストの深い愛から出ているからである。
ただ幼子のような信仰によって平安を頂く。
御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身は誰によっても判断されません。
「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし私たちにはキリストの心を持っています。(Ⅰコリント3:15~16)