あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。こうして、あなたの陣営は聖でなければならない。主があなたの中で恥ずべきものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなさい。(14)
主が救い出して敵を渡すために近しく来てくださるとある。それが神から発した戦いなら勝利を備えてくださる。そのとき陣営はきよく保たれていなければならない。
眠っている間に精を漏らした者は汚れているとされ、陣営の外に便所を設け、野の排泄物は土で覆うことも記されている。それらの汚れは霊や魂ではなく体の問題である。
口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。
しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。(マタイ15:17~18)
今、主はキリストに似たものとされる心を見ておられる。それは、キリストの十字架によって罪があがなわれた者のきよさであり、聖霊に導かれて生きるときに、選び取らせてくださる一つひとつの聖さである。
それは、人には出来ないことが神には出来るゆえであって、死を経て完成されるからだの完全なきよめに至る。
聖霊は私たちの心を見張って汚れを嫌悪する心を備え、きよさを求めて即座に方向転換出来るように導いていてくださる。肉のからだにあって生きる者は、罪と無関係には生きられないが、罪に縛られることのない自由を持っているのである。
主人のもとからあなたのところに逃れて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。
あなたがたのうちに、あなたの町囲みの中のどこでも彼が好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼を虐げてはならない。(15~16)
罪の虜になって来た者が、救いを求めてキリストに身を寄せるとき、「清くなったら来い」とは言わず、誰であってもそのままに受け入れて、がんじがらめの罪の呪いから解放してくださる。
イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)
キリストに押し寄せる罪人を責められることはなく、追っ払うこともなさらない。それは主が「私は正しい」という丈夫な人のためではなく、弱さ故に罪に病む人を解放するために来てくださった、真の救い主だからである。
イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない。イスラエルの男子は神殿男娼になってはならない。
いかなる誓願のためであっても、遊女の儲けや犬の稼ぎをあなたの神、主の家に携えて行ってはならない。これはどちらも、あなたの神、主が忌み嫌われるからである。(17~18)
性的な汚れは人類を滅亡に至らせる悪魔の罠である。それは神が祝福して「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。」と命じられた、健全な命の祝福に至らないからである。
健全な欲求が罪によって歪められ、愛に飢えた魂の渇きによるものであり、それを癒やすことが出来るのは、神の愛に満たされる経験だけである。そう、人は誰でも神に背を向けた時から、神の真の愛に飢え渇いて様々な罪を犯すのである。
イエスの愛は遊女の涙の捧げものを受け入れ、不正な収税人であったザアカイには、彼の所に来て悔い改めの捧げものを受け容れ、罪の縄目から解放された。
罪人が主と交わるなら、如何なる罪も雪よりも白く聖くなるのだ。それは十字架の血の力であり、過去、現在、未来の罪をもきよめる完全な神の力である。
「さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)