兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。(34)
イエスは、死に至らしめるために足の骨を折られる間もなく、心臓が張り裂けて死んでおられた。イエスの心を張り裂いたものは、その聖い御体に負ってくださった、罪の痛みと思えてならない。そのように脆くされたのは、御父の御愛のようでもある。
この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。(36)
すべて聖書の預言の通りであって、彼を殺した者の前に、イエス・キリストが約束の救い主であることを明らかにしている。
また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。(37)
兵士がわき腹を槍で突き刺したとき、血と水が流れ出たのである。見ているヨハネの証のためにために、血と水が分かれて流れ出たのである。
兵士がイエスを見る目は嘆きだったのだろうか‥勝利だったのだろうか・・あるいは、何も感じることのない死んだ目なのか・・。
それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。(35)
ヨハネが見る目は、深く霊のうちにとどめるために見開かれて、いのちである血と、みことばである水を見分けていたのだ。
イエスが「いのちのことば」であることを、神は映像としてヨハネの目に見せられたのである。
彼が愛のタラントを用いた時、イエスは彼にご自身を現わして、信仰を確固たるものに育てられた。黙示録を書きとめる働きの備えである。
どれほどの祝福をたまわっても、大きな奇跡を経験しても、主を知らなければその事実を、真っ直ぐに伝えることは出来ないからである。