主はモーセに次のように告げられた。
「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、
彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。(1~3)
神に満たされた霊によって、みことばを形にする働きにベツァルエルが選ばれた時、彼の必要はすべて神によって満たされていた。
聖書は神の霊によって働く人によって書かれたものである。多くの人々の翻訳によって国々に広がり、決して完全ではない言語のうちにあるみことばを、聖霊は誤りなき神の言葉として、読む者の霊に語って解き明かし、完全な働きを導かれる。
神が人を用いてご自身を現わそうとされるのは、愛を伝えて信頼関係を築くためであり、共に働くことを喜んで下さるお方だからである。
見よ。わたしは、ダン部族に属する、アヒサマクの子オホリアブを彼とともにいるようにする。わたしは、すべて心に知恵ある者の心に知恵を授ける。彼らは、わたしがあなたに命じたすべてのものを作る。(6)
神は人を選んでみこころを行わせられた。その選びは「すべて心に知恵ある者に知恵が満たされる」とある。働きにおいては神の選びは一貫しており、与えられた5タラントを用いて5タラント儲けた者に、さらに与えられるのである。
その働きは、神の愛に満たされた熱心から出て、動機はみこころへの希求より与えられたタラントに満足しての喜びにある。
神はご自身を求める者には必要を豊かに満たし、働くためのチャンスを与えて、主の豊かさを経験させて下さるお方である。
注ぎの油、聖所のための香り高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。(11)
働きにおいては「すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。」とあり、ただ、みことばに忠実であることが求められている。
それには絶えずみことばに聴くことしかなく、人は不完全であり何かを行えば失敗もする者であるが、聖霊はみことばを通して違いに気付かせてくださる。
キリストに信頼してすべてを委ねて働くなら、失敗の中でも神の愛を経験しつつ成長し、謙遜を躾けられる時となる。
その働きは最善と思うことをするのではなく、最新の技術によるのでもなく、まして感情の赴くままにではない。人には愚かに思える神の言葉に自分を捧げる働きである。
どんなに小さなことであってもみこころを行おうとするときは、自分自身を捧げていなければ恐くて出来ない。神は完全な人など造られなかったから、欠けだらけの自分自身を、主に信頼して捧げものとするためである。
神がアブラハムを祝福してイサクをたまわったのは、従順の捧げものとするためであり、アブラハムの従順を通して、我ら子孫を空の星、海辺の砂のように増やすためであった。
神にたまわった祝福は「捧げよ」との御声を聴く時にすべてを捧げものとして、子孫を得ることにある。
私たちが豊かに受けた良きものは、そっくりそのまま豊かな捧げものとなる。それによってみこころを成して恵みの実を結ぶのだ。
種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。(Ⅱコリント9:10)
キリスト者はすべてのたまわりものを、信頼と感謝をもって御前に捧げるとき、纏わりつく恐れから自由を得て働くことが出来るのであり、そのことが出来るのは聖霊の働きである。
それはキリストの平安の中に憩っての働きであり、愛する者を捧げる時にたまわるものは、子々孫々までの祝福であることを、みことばから知っているからである。