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またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9:1~2)
弟子の心ない裁きの言葉に何も言い返せず、イエスさまに「癒してください」と叫ぶ信仰も持たない者に、イエスさまの方から来てくださった。
アダムに罪が入って以来、すべての人は罪に対して理不尽な縛りを持って生まれてくる。どれほど聖い生き方を願っても、そのようには生きられない不自由な身である。
この生まれつきの罪人の救いのために、神様はイエス・キリストを遣わしてくださったのだ。
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。(ヨハネ9:3)
イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。(ヨハネ9:6~7)
アダムの体を造った土と、イエスさまの口から出たつばきによって、男の目は新しく造り変えられた。
私たちもイエスさまの口か出る神のことばによって、新しく生まれ変わるのである。
みことばを聞いた男は立ち上がって、見えない目のままシロアムに向かって歩き出した。彼にはみことばが唯一の望であった。
目に泥を塗られて新しい道を躓きつつ進む彼の道筋こそ、美しい捧げものである。彼が黙ってみことばを行ったとき肉の目は開かれたのだ。
主はご真実なお方であるから、キリストの信仰と心のままに行える力を与えて命じなさる。
神さまのことばを信じる者には、神の力も備えられる。シロアムへの道は彼の信仰による応答であり、証しとして神の前に人の前に残るのである。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(ヨハネ9:32~33)
彼は経験に拠ってはっきりと証しする者とされた。もう理不尽な言葉に対して何ひとつ言い返せない者ではなく、救いの経験を否定する者に向かって勇敢に話す者となった。主を知った者は、人を恐れることから解放されるからである。
イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(ヨハネ9:35~38)
主を証しする者が世から除かれるのは、世の者ではなく神の所有とされたからである。そのとき、イエスは彼に来て信仰告白と礼拝を導いてくださった。そうして霊の目も開かれたのである。大切なのは永遠に視点を置く霊の目が開かれることである。
一瞬に癒すことが出来る主が、彼には時間を掛けて導かれた。彼に信仰の経験という応答を導かれたのは、語るべき言葉を与えるためである。
人はみことばを聴き続け、絶えざる祈り(霊にある祈り)と、従順という行いにより主を経験し続けるのである。その交わりが無い者は主の言葉を持たないからである。