ふっと不安になることがある。
キリスト者にとっては、キリストではなく人に従っている場合に不安になって当然だと思うのだが、みことばのみを頼りに生きていて「お前は間違っている」と言うささやきを聞く瞬間がある。
私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。(ダニエル3:17~18)
私はこの啖呵が大好きだ。この告白から力を得ることが出来る。そう、たとえ間違っていても、それを許されたのが主であるなら「上等だ!」ってこと。
実に問題はいつも大仰にやってくるけれど、主に在ってはただのこけおどし。
だから脅す声を聞いたら、みことばのホームポジションに駆け戻り、主の砦に飛び込む。
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブル13:8)新共同訳
決して心変わりなされないお方に、何時でも逃げ込める者の幸いである。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(Ⅱテモテ2:13)新改訳
私の悩みも結局は火の粉一つ浴びることはなく、覚悟したものが傷つくことはなかった。
そう、捧げものイサクは傷付けられることなど無かったのだ。捧げられて主のものとなったものは主が守られるのだ。
火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。(ダニエル3:27)新改訳
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