シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(10~11)
ヤコブとヨハネが求めた杯。しかし、イエスの杯には恐怖が詰まっていた。
それはイエスが経験したことのない罪が満ちおり、身代わりの十字架は、義であり聖である神に死にまで従順して、負った汚れのゆえに捨てられることであったから。
ペテロとヤコブが、イエスの左右の座を求めた時イエスは言われた。
「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。(マタイ20:22)
彼らは誓った通りに自分の十字架を負って殉教し、イエスの御足跡を辿って使徒の役割りを全うした。
今、主に身を避ける者にたまわっている杯は祝福の杯である。イエスによって罪の結果の滅びの死からあがない出され、使徒たちの血が流されて伝えられた、いのちが満ち満ちている杯である。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。(詩23;5)
多くの兵士が来たのはイエスと戦うためである。一人を捕らえるのに兵士を揃えて来るのは御わざと戦う備えであろう。しかし神の力であるイエスと戦うには、どれほどの兵士を揃えても無謀というものなのだが・・。
イエスは神の力を一切用いることなく、脅す言葉もなく、彼らにご自身を任された。それによって弟子たちも、兵士たちも、誰一人として損なわれることはなかった。
ただ一人ペテロによって耳を切り落とされたマルコスがいた。その名は、イエスが地上生涯の最後に癒された人である。
イエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。(ルカ22:51)
イエスは誰も傷つけることはなく御わざを敵を癒やすことに用いられた。
造り主なる神の愛を、ご自身の命を差し出して世に知らせ、罪の結果である滅びからいのちへと、ご自身を信じる者すべてを救ってくださったのである。
一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、(12)
数々の力あるわざを行われたイエスが何の抵抗もされず、むしろ負傷した兵士を癒やされるのを目の前に見つつ、イエスを縛り上げる意味を彼らはどのように感じていたのだろう。
命じられるままに漫然と楽な役割りをこなしたのだろうか。確かにそのような日常の中で人は滅びの死に向かって行く。
先祖代々世に倣って生きて来た人類は、自身のすべてを破壊する死と言う事実にも、救いを求めて叫ぶことが出来ずに居る。
それが激しい勢いで命のときを押し流す世の力である。それゆえイエスは、助け主なる聖霊を神に願って下さったのである。
御子イエスの命と引き換えにして、神が準備してくださった救いをたまわるのは、罪の中で苦しみを抱き、真理に渇いている者の叫びに来てくださった、聖霊の助けに拠ることである。
イエスに救われた者は、それまでのように世に身を任せて生きることが出来なくなる。
人生の方向が人中心から神中心に変わり、みことばにすべてのことを照らして生きるようになるからである。
いのちの言葉であるみことばに賭けて生きるようになり、日々のみことばと祈りによって主と交わり、生活の中で生きて働く神の言葉を経験して成長し、いよいよ主を頼みとする従順の中で神の子の喜びを世に現す。
救いはイエスが準備してくだったことであるが、そのいのちを受け取った者は自分の計画を主に委ねて、神の計画を生きるようになる。その人は神の子だからである。
まずアンナスのところに連れて行った。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからである。
カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。(13~14)
神はどのような人をも、みこころのままに用いてご計画を遂行される。主のみこころを違わずに受け取るために、やわらかな心で聞き逃さ無いように備えていたい。
カヤパは預言をしたがその言葉が神から発していることを悟って、イエスに聴くことがなければ誰も救われることはない。救いはイエスに聴くことから始まるからである。