石ころ

イエスが愛された弟子(ヨハネの福音書18章)

 

シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、
ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。(15)

 

もうひとりの弟子ヨハネは、イエスについて行くことにためらいがなかった。それは、知り合いの家というだけではなく、何時でもイエスの最も近くに居ることが「イエスの愛された弟子」には当然だからである。

 

彼はイエスの愛を確信して安息していた。愛されていることを一ミリも疑わなかったので、彼のうちにはイエスの愛が充満しており、十字架の側に居て、マリアを母として託される御声を聞いたのである。

 

イエスをどのような方と信じるかが、その人が経験するイエス・キリストとなる。しかし、生きて働くその経験のすべてを語ることは無いのは、とてもプライベートなことであり、また、三位一体の神と共に在る者が、主を経験することは日常のことだからでもある。

 

わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。(ヨハネ17:23)

 

キリスト者とはどれほどイエスに愛されている者であろう。それは神が人となって、嘲りの十字架で命をたまわるほどの愛である。
創造主なる神を無視して、自分自身の思いのままに振舞っていた時に、一方的な愛に拠って備えてくださった救いをたまわったのである。

 

どれほどに愛されていても、イエスに信頼して救いに安息することがなければ、自分を覗き込んで愛を疑ってしまい、いのちのプレゼントを脇に押しやるのである。
それはどんなに無力な者でも捧げることが出来る、感謝と喜びを味わうことがなてイエスを悲しませている。

 

創造主はご自分の作品を愛しておられる。神の愛は何かと比べての愛ではなく、良い計画を持って母の胎で組み立ててくださった、命の作者の愛である。
私たちはイエスが回復してくださった関係に拠って、「アバ・父」と幼子のように御許に留まるのだ。

 

救いはイエス・キリストと父なる神によるプレゼントであり、その救いに人は何一つ関わることはない。
イエスの十字架の御わざを信じて受け入れることにさえも、聖霊なる神の助けに拠ることであり人から始まったことではない。人は神の愛をただで受け取る者であり、それが救われた者の実体である。

 

イエスと共に十字架に付けられていた強盗が、救いを求めて心のうちでイエスを礼拝したとき、彼が十字架の救いの第一号となったのである。救いを受けるための条件はイエスを求めることであった。

イエスは彼の心を見られたのである。口先での誓いではなく主は心をすっかり見ておられるから、此処に救われた者の安息がある。

 

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マタイ26:41)

 

世で思うように生きることが出来ない間も、イエスが霊のうちに居てくださる平安がある。
すべてを知る主が愛と忍耐によって、うちに居てくださる幸いを、霊で、魂で、全身で、四六時中喜んでいる神の子たちである。


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