![見出し画像](https://blogimg.goo.ne.jp/image/upload/f_auto,q_auto,t_image_head_long/v1/user_image/26/ae/f844af906ba88edd2812626d56d3f754.jpg)
「平安があなたがたにあるように」とよみがえりの主は言われた。主の平安を与えると約束して下さった。
しかし平安を得るためには差し出さなければならないものがある。それは、この世では主張して当然の権利を、犠牲にして得るものだと思う。
自分で守って来たものを差しだして、イエスさまにお任せするときに得るのが平安。
損害を覚悟して、言い訳をせずに恥を受ける覚悟して、人の口の責めを覚悟して、自らの計画を捨てる時に来るのがイエスの平安。
姉妹は言われた。此処に書かれていることは私のことだと・・この男は私だと・・。争った直後にこのみことばを示されてとても驚いたと。
みことばを備え「悔い改めよ」と教えて下さったのは聖霊、そうし主の平安を得よと・・。
どんなにこの世で正しい主張であっても、自分たちを守るためにどんなに必要な主張であっても、それを言い立てるものは聖いものではない、それは汚れたもの。
イエスさまを宿している者は汚れた者と住んではいけない。それに関わってはいけない。なぜなら、そのときイエスさまの「平安があるように」という命令に背くことになるから・・。
どうぞ賜るべき「平安の価値」を悟ることができますように。
主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。
主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。
わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。(詩編94:11~13)
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事