彼女は今、苦しんでいる人が身近におられて、何時もいつも救いを求めて相談を持ちかけられるという・・。その苦しみは彼女も経験して来られたものなので、イエスさまによって癒されたことをお話して「イエスさまのことを聞きなさい」と強く勧めているけれど、「そんなことで良くなるわけがない」と聞く耳を持たないことに苛立っておられた。
お気持ちはとてもよく分かる。私だって思うようにイエスさまを伝えられないことに悩んできた。「私の出来ることだけをして、結果はイエスさまにお任せ。」と言いつつも、時々苛立ったり、怒ったり、絶望しそうになったり、悲しんだりしている。
放蕩息子に、もし父が自由を与えなかったとしたら、兄息子と同じように父の愛を知ることも、自分の罪に気づくこともなかっただろう。
パウロが自分の信じるままに、クリスチャンを迫害することを、主がある期間許されなかったとしたら、彼が「私は罪人のかしら」だと告白するほどに、罪と赦しを知ることができたのだろうか・・
神様が愛するひとり子をこの地上に下し、イエスさまが十字架を負ってまでして私たち人の自由をゆるされた。それまでして、人が自由な意志をもって主のご愛に応答することを求められた。
人とは自分のやりたいようにやり、自分の信じることを行う者であり、そんな中で失敗して初めて罪や間違いに気づくのだと思う。自分の罪を認識しない人が、どうして赦しを求めることができるだろう。どうして主の十字架にひざまずくことができるだろう。どうして赦される喜びを知ることが出来るだろう。
今日は毒麦のたとえの箇所を読んだ。私たち救われた者も、まだそうでない人も、複雑に絡み合い、助けたり助けられたりして生活をしている。毒麦と麦は似ているから、実を結ぶまでは分からない。
今は、時には弱音を吐いて不満をもらしたりしつつも、しっかり立って主の時を待とう。

「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:19)
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:25)
「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブル12:3)
「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペテロ3:9)