罪を犯したたましいが死ぬのであり、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい人の義はその人の上にあり、悪しき者の悪はその者の上にある。(20)
父の咎によって子が死ぬことは無く、子の咎によっても父が負い目を負わないと、処罰の限界を定められてあることは、生かす神の愛によることである。
しかし、悪しき者でも、自分が犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべての掟を守り、公正と義を行うなら、その人は必ず生きる。死ぬことはない。(21)
愛によって人を創造された神は、人が罪を知って反抗する者となり神を避けるようになった時も、その御愛は変わらずクリスマスを計画してくださった。
生かす創造主から切り離された魂は、わずかな命の間に滅びて行くものだからである。
それは、時に自分たちの思いのままになる神々を作り、また自分の知恵と力のままに反抗する民に備えられた救いである。ご自分の作品である一つひとつの魂を愛しておられるからである。
彼が行ったすべての背きは覚えられることがなく、彼が行った正しいことのゆえに、彼は生きる。(22)
この赦しが旧約聖書に書かれてあるのに驚く。究極の正しいこととは、キリストに拠って罪を贖われ、みこころを行うことであり、いのちのプレゼントであるキリストを感謝にあふれて「我が主、我が神」と受け入れることである。
その時すべての罪は赦されて永遠に生きるのである。しかも、神は「あなたの罪を思い出さない」とまで言われる。
神が忘れて下さった罪を思い返しては、吐いたものに戻るのは汚れたことである。汚れた良心によって罪に留まる事であり、それはみこころに生きることを妨げる悪魔のわざである。
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ43:25)
神が「わたし自身のために」と言われる。神の愛の故に赦された者の罪を、死を持って追い続けることは恐ろしい。
みことばの従順は復讐に留まらないことである。神が敵の罪をも拭い去られたかも知れないからである。自他の罪に粘着するものは聖さではなく汚れであり。聖化は日毎に新しい導きの中にある。
わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──神である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。(23)
父なる神は、子らの罪を当然のこととして死に定めることは出来ずに、ひとり子イエスを、選びの民の罪をも贖うためにお与えになった。この方以外の救いは無いからである。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
救い主を避けることは救いから遠く離れて行くことである。聖霊にふれられ謙り幼子のように礼拝するなら、神がすべての初めに計画してくださった救がイスラエルに成就する。
「わたしのすべての掟を守り、公正と義を行うなら、その人は必ず生きる」誰もこの命令を守ることは出来ないからである。