石ころ

今天国行きの列車に乗る時

 

 イエスを殺すほどに憎んだイスラエルの宗教者たちは、イエスから何の被害も受けてはいない。イエスはキリストの愛によって、彼らの救いを妨げるものを指摘しただけである。

 

人の憎しみは必ずしも被害を受けたからではなく、冷静に振り返ってみれば憎んだきっかけが愛から始まっていることがある。妬みもそのように、愛している人から攻撃を受けることがある。

 

戦う必要の無い相手を非難したり、攻撃し憎むようになるのは、心に巣くっている罪によることである。それらの罪からすでに解放されていることを悟らなければ、本当はしたくもないことをし続けて、罪に支配される不幸せを自他にまき散らし続ける人生となる。

 

私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。(ローマ6:6)

 

キリスト者にとって罪はイエスによってすでに解決されていることであり、生まれながらの感情には拠らずに、聖霊によってみことばの約束にある平和が備えられている。それはキリスト者を永遠の御国にまで守るものである。

 

罪の支配を受けないためにはキリストのうちに住むことである。イエスの十字架による罪のあがないを知識で知るだけではなく、聖霊のバプテスマにより罪を焼ききよめられて、キリストの愛に浸される安息である。

 

他を攻撃するのは、自分の義を証明して自身を守ろうとしてのことであり、自分の罪も他のクリスチャンの罪も、イエスの十字架で完全に処理されていることを知る必要がある。イエスの十字架がどれほどに完全なあがないであるかを悟ることである。

 

赦しの確信のためには、自分の罪が何であるかを知らなければならないのだが、これがやっかいなのは人は生まれつき罪の中に居る者であり、罪の認識が比較に拠るので、自分より罪深い者を見つけると「・・よりまし」と、その分自分の罪を帳消しにしてしまうのだ。

 

それはサタンの目くらましであり、聖霊に拠って罪を明らかに示されることから救いは始まる。罪が分からなければ赦しの必要も分からないからである。

 

 聖霊によって、みことばを神の言葉と幼子のように信じた時には、先に待っている御国の期待と喜びに満ちて、その喜びゆえに良くも悪くも他人のことを妬んだり羨んだりするほどの関心は無くなる。

 

興味も関心もすべてがイエス在って、永遠の望みの主にお会いする期待に溢れて、時折世のものが心を引くことはあってもすぐに忘れ去り、寝ても覚めても主に引き戻されるからである。

 

霊の喜びは肉の喜びとは真逆なものである。霊によって主の愛を解き明かされた喜びは、魂や肉の悲惨な状況にあっても腹の底から揺るがぬ力が湧き上がるものである。


使徒たちが禁じられたみことばを宣べ伝えて鞭打たれても、それを喜んでより力を増して行ったように・・。

 

「何時も喜んでいなさい」とあるが、肉や魂が喜び続けているなら狂っている。しかし霊に於いてはイエスに救われた時から、時が良くても悪くても変わらぬ喜びがあるのだ。


霊に在る喜びは、世の試練の時も、理不尽な攻撃にも、友と思っていた人に裏切られた時も、倒されても真っ逆さまに倒れることは無くすぐに立ち上がらせる力ある。

 

それはこの世のことではなく永遠のいのちの喜びだからである。神に満たされ続ける霊の喜びを持ち去るものは何も無いのだ。

 

 イエスを信じた時に天国行きの切符を持っている・・、昔そのような歌を歌っていた。でも今、はっきりしていることは切符を持っているだけでなく、昔の生き方を捨ててすぐに列車に乗り込まなければならないのである。

 

列車の中では罪の誘惑は過ぎ去る一瞬の景色に過ぎず、もう罪に囚われて鼻ずら引き回されることはない。なぜなら列車はすでに天国に向かって疾走しているからである。

 

ただ、列車には世で築き上げたものを捨てて、愛する人々の関係をも主に託しひとりで乗るのである。愛する家族も主に信頼して差し出し、誰よりも愛するイエスに身を委ねて乗るのである。


ヨブを愛する神が、彼の子供たちを取り上げなくても良いように。ヨブがどれほど子らを愛しても、ひとり子をたまわるほどの神の愛には及ぶべきもないからである。

神から誰かを庇うような真似は、神と人の間に立ち塞がることであり、彼らを愛する聖霊の働きを邪魔をすることである。

 

 天国行きの列車は、生きている間にイエスの十字架の血潮に洗われた者が、みこころを生きるために乗るのである。
切符を持っていても、あれこれと世の事柄に引きずられて乗り込む時を失し、世の吹きっ曝しに立ち尽くして居てはならない。

 

世の終わりは近づいており、次に何が起こるのか誰にもわからない。人は明日も生きていると信じて懸命に命に備えようとするけれど、今、どうしても必要なことは明日のためではなく、永遠のための備えなのである。

 

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:22~23)


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