石ころ

イエスの栄光となる(ヨハネの福音書17章)

 

わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。(4)

 

嘲笑と鞭と鋭い棘の茨の冠、強盗と一緒に十字架に曝されているイエスに誰が神の栄光を知るであろう。

 

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ53:4~5)

 

人は目の前で見ていることがすべてであり自分に重ねて判断する。イエスは私たちの罪と言う病を負い私たちの痛みを担われた。しかし、十字架を目の前にした群衆が、イエスが成された力ある神のわざ、憐みの御わざを思い出すことはなかった。

 

「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ27:40) 

 

まず十字架から降りて神であることを見せよと、「自分を救えない者がどうして他人を救うことが出来るのか」と言う。人は他人を救う前に自分を救うものである。

 

しかし、イエスが十字架から降りたとき過去、現在、未来、すべての人類が自分自身の罪のゆえに滅びるのである。例えどれほどの善行を積もうとも、それによって神に義と認められる者はないからである。神の義は罪の軽重ではなく有無である。

 

イエスは御父に従順して神の座を捨てて地に下り、罪なき御身に全人類の罪を負われた。その罪の汚れゆえに十字架で御父にも捨てられたのである。イエスの十字架が理解できないのは人には神の義がわからないからである。

 

十字架の御わざを悟るのは、イエスが墓から三日目によみがえり昇天された後に、人のうちに来てくださった聖霊に拠るのだ。
聖霊はイエスの十字架がどれほどに完璧なあがないであるかを悟らせ、聖とされ義とされた神の子の平安を知らせる。

 

父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。(5)

 

イエスは神の栄光を天に置いて人となり、地に下って死を滅ぼして御父のみこころを成し遂げ、今、御父の右の座に着いて居られる。
天地を創造されたときの栄光が再び現われるのは、イエスが神の作品を取り戻して創造の初めを回復されたからである。

 

あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。(6)

 

人は霊と魂と体によって造られており霊である神を知るのは霊である。アダムが罪を犯したとき彼の霊は死んだので、神の愛がわからなくなり神を恐れて避けるようになった。罪は神の聖さの中で生きることを不可能にするのだ。

 

しかし神は御子による救いを計画して、救われる者をアダムの子孫から選び出し、聖霊によって霊を回復させて神を知る者を備えてくださった。選び出した者に霊の交わりを回復して礼拝に導き、みことばの約束を与え、イエスの命と引き換えに御許に生きるいのちをたまわった。

神の選びがどうして少数であろうか、御子をたまわるほどの犠牲をもって計画してくださったことなのである。誰が私は神に愛されていないと言うのか。

 

あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。
あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。(7~8)

 

使徒たちの働きはイエスの祈りから発しており、キリストを知る確信によって命の用い方としたのである。
キリスト者にはイエスの祈りの備えがある。すべて、救いの実を結ぶことは神から発した備えと導きにあり、そのイエス・キリストを信じて結んだ実である。

 

神にたまわる最高のプレゼントは、御子のいのちと引き換えた救いのことば聖書である。聖霊の助けの中で、神と人を愛する人々の命を用いて書かれ、いのちを与えるために生きて働くことばである。


聖書は使徒から始まって、イエスにたまわったいのちを喜ぶ人々によって世界に伝えられ、今は世界のベストセラーとして読み継がれており、滅ぶべき人類を死からいのちへと生かし続けている。

 

すべては、使徒がイエスのことばが神から出たことを御わざにより、また、墓からよみがえり天に昇られるイエスを見たからであり、聖霊によって生きて働くみことばを経験したことに拠る。

 

わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。
わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。(9~10)

 

イエスを信じた人々はみな、死によって滅びることの無いいのちをたまわり、永遠の望みに満ちて働くようになる。永遠の望みを持つとき、今日の命を主に委ねて力を得るのであり、彼らは何時でも主と共に在ってすでに永遠のいのちを生きている。

 

イエスは使徒たちのために、また使徒によって救われて行くキリスト者のためにも御父に祈ってくださった。
十字架にまで従順した御子のいのちが与えられ、神の子とされた者はどれほどに父なる神に愛され、御子イエスによって守られていることであろう。

 

イエスによって救われた者は、神の子となってキリストの栄光を現す。罪によって失われたいのちをイエスが創造のはじめに取りの取り戻されたからである。救い主イエスの栄光が天にも、地にも神の子たちの喜びによって満ち溢れますように。


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