しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。(7~8)
これらサタンの手下は何処から湧いて来るのか・・今、私はわからない。必要な時になったらわかるだろう。
聖書にはわからないことがいっぱいあるから、読み続けることが楽しい。みことばを開き続けるなら明日知るかもしれない。だから、分からなくても少しもがっかりしない。
人から教わることは手っ取り早いかも知れないけれど、主に絶好のタイミングで開かれると、とても主を近しく感じることが出来て嬉しいのである。一人ひとりに相応しい時があり、知るべきことも備えるべきことも、それぞれで微妙に違うのは、キリストのからだの器官が違っているからだと思う。
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(9~10)
すべては神のご計画によることで、それが成る時はアッという間である。だから神を恐れる者は、サタンは恐れることはないのだ。
それよりも大切なことは、今日主に聴いたみことばに留まることである。次の瞬間、何が起こるかは神だけがご存じだからである。
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。(11)
御座のまわりは無限だった。何であれ神を遮るものは除かれる。何処からでも拝することができる御座に着座された方を、ヨハネは「見た」とあるから、御座に居られる方は、神がさばきを委ねておられるキリストである。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。(12)
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18)
キリストを信じた者は、その名がいのちの書に書かれてあり罰せられることは無い。彼らの、白い御座に置けるさばきは神の評価であり、「よくやった良い忠実なしもべだ」というお言葉をたまわるのだ。
さばかれるべき者が、キリストと共に死んでよみがえらされ、新しくされて神の評価を受けるようになる。それも、神の正しいさばきでありただ従順するのである。
王とされたら王となり、さばく者とされたら裁きをするのだ。もし拒むことは、神のさばきを不当とすることである。神の御目には何も隠されてはいないので、さばきは常に正しいのである。
サタンは光の御使いに変装して人を惑わす。その方法は正義を騙って自他を訴えることである。彼の目的は十字架のあがないを無に帰すことである。
キリストの復活と共によみがえらされた者は、新しく造られた者であり、惑わされるのはみことばを持たないからである。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(13~15)
キリストを信じた者とキリストを拒絶した者とは、白い御座のさばきによって永遠に分けられ、過去にも未来にも白い御座のさばきを免れる者は一人もいない。
まことに命のある今は、救いの日であり恵みの日である。