石ころ

千年王国(黙示録20章)

 

 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、
底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。(1~3)

 

すべては神の良きご計画によって成る。悪魔でありサタン、エバを誘惑して人を思いのままに操ったと見えるものは、時が来たらあっさりと捕らえられる。サタンさえも神の道具の一つである。人に選択の自由を備え神との深い交わりを築くために・・。
しかしそのためには、神には御子の命を与える痛みと、人には不忠な者の永遠の死が伴った。

 

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。(4)

 

天使が下って来た地に備えられたこの座は、イエスが天に住まいを備えると言われたみことばに重なる。同じ信仰者の座であろう。彼らは、主に忠実に生きて来たみことばに拠って、この地でさばきを行うのである。

 

よみがえらされた殉教者は、キリストと共に千年間この地の王とされた。此処はなんと住み心地の良い国であろう。人を訴え誘惑して滅ぼすサタンが居ないのである。
王は愛なるキリストであり、死ぬまでキリストに従った信仰の兄弟である。

 

 私は昔、聖書を抱えて訪ねて来た人から、しばらくの間教えを受けたことがあった。彼らが異端とも知らず、聖書も買って、与えられた読み物を学んだことがあった。
人当たりの柔らかさに惹かれたこともあったが、真理に渇いていたからでもあった。

 

与えられた読み物の挿絵が千年王国であった。なぜか、その絵にとても気持ちの悪さを感じた。その感覚は今も残っている。そのこともあって、学びをはっきり御断りして終わった。その聖書を、処分してしまったことが今では残念。

 

聖書が悪いのではなく、キリストに導く聖霊に拠らないことが悪なのである。学びのために付け加えられた冊子は、霊に嫌悪をもたらせた。
私がまだキリストを知らなかった時も、主に覚えられてあり、曲がった道から守られていたのだと感謝している。

 

 しかし、このことは「千年王国」という言葉に絡んで思い出す。とても注意するべきは、サタンはもっとも聖いものを、横取りして汚そうとすること。神のキリストを、悪魔ベルゼブルの頭と呼ばせたように・・。

 

そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。(5~6)

 

一方的なキリストの恵みによって、聖霊に触れられイエスを主と告白して、信仰に導き入れられた。復活に与る者とされていることは、真に幸いというほかない。これが福音の内容である。


此処にある何にも勝る喜びは、リアルにキリストと共に居らせたもうことである。愛するキリストと共に働くことである。

「みこころが地になりますように」という、長年の祈りが成就する仕事なのだ。妨げるものはもう何もない・・、これほど楽しい仕事があるだろうか!


アダムがエデンを追放されて以来、人は生きるための艱難辛苦を味わい続け、あらゆる理不尽にも不自由にも耐えて、時に心や体を病んで来た。
それらがすべてあがなわれて、キリストの御顔を仰ぎ見つつ、健やに喜びにあふれてみこころを行うようになるのだ。


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